第1章 創業と花札

初代店主 山内房治郎

任天堂の創業は1889年(明治22年)9月23日。職人で商才をもった山内房治郎が、京都市下京区正面通り大橋西入ルの地に小さな店を構え、花札を製造したのがその始まりとされている。福井宗助の長男として1868年(明治元年)6月生まれの山内房治郎は、1872年(明治5年)に山内猶七の養子として入籍し、1881年(明治14年)に山内家を相続した。1885年(明治18年)、房治郎は親元と共に手伝っていた石灰問屋「灰岩」を初田岩次郎から継承し、「灰孝本店」を創業(翌年、本田コマと婚姻して娘の貞が生まれる)。その4年後に任天堂の初代店主となり、22歳の若さで2代に渡って2つの店を経営。そのうち、かるたを主体としていた任天堂の事業を大きく発展させた。

任天堂創業時の本店

創業当時の任天堂本店(※2)

房治郎という名前の漢字だが、任天堂の会社案内などの資料によると「房治郎」と記載されているが、大正時代まで「房次郎」(任天堂製名札のパッケージにも旧名で記載)という記録が残っており、昭和初期以降になって「房治郎」と記載されるようになった。三代目社長の山内溥と同様に昭和に入ってから改名したと考えられている。
社名の由来は不明だが、房治郎のひ孫にあたる任天堂三代目社長の山内溥は「人生一寸先は闇。運は天に任せて、与えられた仕事に全力で取り組む」と定義している。
山内溥いわく「人事を尽くして天命を待つというが、人事なんてなかなか尽くせるもんではない。そのときは、やるだけやった。後はどうなっても満足だと思うかもしれませんが、しくじったらそのとたんに、ああしておけばよかった、こうもすればよかったと、次から次に反省が生まれるものです。だから、どんなに人事を尽くしたつもりでも、人間は所詮は天命を持つ心境にはなれない。そういう意味でも、私は、任天堂の名の由来ごとく、人事を尽くして天命を待つのではなく、単純に『運を天に任せる』という発想を積極的に取りたいと思っています。」(※1)と解釈し、社史に刻んでいる。

花札を主力として成長

大統領印の花札

最高品質の花札「大統領」ブランド

山内房治郎は数人の職人とともに、花札の材料となる紙をミツマタの樹皮を使う伝統的な手法で作った。花札のほかにも、百人一首を商品目録として追加。しかし、花札も百人一首も家庭の遊びであったため当初は伸び悩んだが、房治郎が本店の近くにあった賭博場に持ち込んだことによって、次々と注文が入るようになり売上が急増したという。
プロの博打打ちは、1組の花札を1回しか使用せず、勝負の度に新しいものをおろしていた。ギャンブルの場でイカサマはご法度とされており、博打打ちが新品を使うのは花札にガンをつける(札に傷やへこみなどの目印をつける)ことを防止するためだという。
勝負師にとって札の品質は何よりも重要だった。こうしたお客を相手に商売をしていた房治郎は品質に徹底的にこだわり、任天堂にとって最高品質の花札を「大統領」という名のブランドで売りだした。花札作りは職人の腕や材料、環境によっても品質にバラツキができるため、「大統領」に劣る花札は「金天狗」(後の「天狗」)など複数にランクにわけ、数百種類にもおよぶシンボルを用意した。
任天堂が作った古くからの花札には、基本的にパッケージや札に丸福の印が表記されている。もともと福井家の屋号だったが、房治郎が山内になってからは山内家の屋号として使われている。その後、任天堂の登録商標となり、昭和初期には販売会社の社名としても用いられた。
当時、全国で一般的に使用されて花札は「八八花」と呼ばれる種類のもので、札の絵柄はみな同じだったが、包み紙や品質で差別化を図った。勝負師たちは好みのブランドを選択して、花札を楽しみ、任天堂の花札は京都と大阪の支店で販売され、房治郎の作る札はこれらの地域で人気商品となった。

任天堂のルーツ かるた・トランプの歴史

任天堂の歴史を紐解く前に、かるたの歴史について少し触れておきたい。かるた屋は長い歴史の中で、娯楽商売の旨みも厳しさも知っており、環境の変化に柔軟に対応することで、生きる術を身につけていた。その最高傑作である花札をルーツとする任天堂も、400年以上続くかるた屋の精神を受け継いでいる。
日本にかるたが伝わったのは16世紀後半で、ポルトガルによる南蛮貿易で持ち込まれたとされている。「かるた」という名称は、ポルトガル語で手紙や紙板状のものを意味し、当初は「南蛮かるた」と呼ばれていた。
1573年以降になると九州の職人が南蛮かるたを模して国産初の「天正かるた」を作り、戦国武将たちの遊びとして親しまれてきた。江戸時代に入ると、かるたは九州から京都に移り、庶民の間にも浸透。しかし当時の幕府は鎖国によって、西洋式の娯楽を禁止していた。かるたは西洋式であることに加えて、しばしば賭博と結びついていたため、社会に対する悪影響と与えるとして、使用が禁止されたいたのだ。
こうして「天正かるた」は消えていったが、かるた職人たちはその技術や製造手法を別の形で継承した。そこで生まれたのが「歌かるた」(百人一首)と呼ばれる美しい絵柄と古の歌人たちの歌を組み合わせた札で、上流階級の人々を中心に広まった。さらに、まだ教育の行き届いていない庶民に向けて一般的なことわざを用いた「いろはかるた」も作られた。
1700年代に入ると、「天正かるた」の流れが引き継がれ、図柄を和風に変えた「うんすんかるた」が登場し、盛り上がりをみせた。
しかし、教育系を除くかるたは賭博に用いられたことから再び規制の対象となり、姿を消した。トランプ同様に「うんすんかるた」もカードに数票を用いていることが、諸悪の根源とされていたのだ。
江戸のかるた職人たちは知恵を絞り、数票でなく日本独自の四季折々の絵柄を組み合わせた「花かるた」(花札)を生み出し、従来との違いをアピールした。
やがて「花かるた」も庶民の間で人気となるが、風紀を乱すものとして1841年(天保12年)に「江戸花札骨牌禁止令」が公布されたのを機に全面禁止となった。それでも花札を使用した賭博は水面下で横行していたという。
明治時代に入ると、鎖国が解けた日本に再び西洋かるた(トランプ)が持ち込まれるようになり、かるたを取り巻く状況は大きく変化した。
トランプは世界的にはプレイングカードと呼ばれ、元々ブリッジの切り札を意味していたが、それを見た明治の人々がトランプだと思い込んだため、日本独自の呼び名で定着したといわれている。
文明開化の波はあっという間に全国に押し寄せ、これまでの人々の生活や習慣を変えて、トランプも明治の人々の間で人気の遊びとなった。
カードゲーム類は当初、輸入のみ認められていたが、1885年(明治18年)になると、花札の販売が解禁され、4年後にはかるたも含めて全面解禁となった。それにともない、花札を始めとするカード類は再び人気の娯楽となり、全国に次々とかるた屋が開業された。山内房治郎が店を構えたのもこの年(1889年)だった。

    出典

  • ※1 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)
  • ※2 任天堂かるた原価表(大正13年)