第2章 二代目社長 山内 積良

国産初のトランプ製造に着手

山内房治郎は増大する花札の需要に対応するために、新しい印刷板を購入して従業員の数を増やしていった。任天堂本店の規模も拡充させ、京都市東区に工場や各地に点在する職人たちに製造を依頼し、販売経路を拡大。
ところが1902年(明治35年)、明治政府が「骨牌税」を制定し、かるた類に大幅な課税をすることで風紀の締め付けを図った。日露戦争の開戦に備えて富国強兵のためにはお金が必要だという事情もあった。この課税によって全国のかるた屋は次々と店をたたみ、本場の京都においても失業する職人が相次いだ。活気にあふれていたかるた業界は一転して奈落の底に突き落とされてしまったのだ。
競合が消える中、任天堂は生き残った。輸入一辺倒だったトランプに目を付けたからだ。骨牌税法施行の年に任天堂は日本で初めてとなるトランプの製造に着手。加えて独自の流通網を開拓し、商圏を近畿地方中心だったのを全国へと展開させた。

昭和初期の任天堂製トランプ

昭和初期の任天堂製トランプ

当時、輸入一辺倒だったトランプは日本でも広まり、なかでも貴族や裕福な家庭で遊ばれていた。トランプは高価だったこともあって、庶民にはまだ手の届かないモノだった。そこで房治郎は、米国から中古の機械を購入し、花札で培った技術を用いて自前のトランプを製造。
国産第1号のトランプは、日本のかるた発祥地といわれる福岡県大牟田市の三池カルタ記念館が1990年代後半に米国で発見し、複製を一般公開している。クローバーの3の左右の端のマークがなぜかスペードになっているため、ミスプリントかマジック用だったかは不明だが、印刷も裁断も当時としては驚くほど精巧で、それまでの手作り品とは比べ物にならない出来だったという。
一方、任天堂がトランプを作ったのは、京都の東福寺に捕らわれていた捕虜のために、看守が依頼したためという記録も残っている。東福寺が任天堂の近場にあったのと、輸入用トランプが高価だったからだ。
かつて任天堂の会社案内には、同社が国産初のトランプ製造に着手したのはは1907年(明治40年)と記されていたが、1990年代末には1902年(明治35年)に変更されている。もうひとつ、房治郎は旧知の仲だった明治のたばこ王「村井吉兵衛」の協力を得ることに成功。村井が全国に持つたばこ屋の販売ルートを利用して、カード類の販路を大きく広げていった。トランプ・花札は、たばことサイズが似ており、博打打ちが好むという点でも相性がよかった。
20世紀初頭の日本で全国に流通網を持っていたのは、村井の「日本専売公社」(現・日本たばこ産業株式会社)と「富山の薬売り」くらいだった。かるた業界は職人の世界であり、伝統的にすべての製造者は自身や知り合いの店舗、作業場を通じて商品を直売していた。房治郎は単なる職人にとどまらず、時代の一歩先をいくセンスを持ち合わせていたとされ、「よそとは違うこと」をして、カードゲーム屋としては初めて全国への市場を開拓した。こうして、山内房治郎が隠居する昭和に入る頃には、任天堂は日本最大のカードメーカーとして全国にその名が知れ渡るようになった。

二代目店主 山内 積良

山内任天堂本店

昭和初期の山内任天堂本店(※1)

山内房治郎が任天堂を創業してから40年の月日が流れ、同店は日本最大のカードメーカーになるほどの成長を遂げていたが、年老いた房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかった。そのため、娘の貞(さだ)を最も優秀な従業員だった金田積良(かねだ せきりょう)を婿養子として迎え入れた。
1884年(明治17年)2月生まれの金田積良は、京都府議会議員だった金田弥兵衛の二男であり、京都府町村長会長の金田力蔵を弟にもつ、陸軍工兵少尉。1929年(昭和4年)、金田の姓から山内となった積良は任天堂の二代目店主となり、家業のかるた・トランプ製造・販売の「任天堂」と石灰セメント問屋の「灰孝本店」を受け継いだ。
1933年(昭和8年)、山内積良は創業の地だった古民家(当時は福井家が所有)の隣に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの「合名会社 山内任天堂」(現・株式会社山内)を設立し、手狭となっていた本店を移した。
京都駅から10分ほど歩いた鴨川にかかる正面通りの地には現在も旧本社が残されており、南北に長く3つの建物が連なっている。当時は事務所のある1階は大理石に覆われ、2階では木箱の棚が並べられ、そこで花札を製造。入口1階手前には最高ブランドとなる「大統領」印のモデルだったナポレオンの肖像画と花札やトランプ類がショーケースに飾られている。地下に下りると、カード類の資材倉庫が並ぶ。奥の2つの建物は山内家が所有する邸宅で、その昔任天堂の経理を担当した積良の妻・貞(てい)が暮らしていたという。中央の建物の中庭には灯籠が立てられ、屋根には鳩小屋が設置されている。

山内任天堂本店の看板

山内任天堂本店の当時の看板

建物内部には中世ヨーロッパ風の部屋があり、1~3階まで異なるデザインの暖炉が設置され、かつては海外からの客を招きいれていたという。さらに山内家代々の先祖の仏壇も置かれ、任天堂三代目社長だった山内溥夫妻は生前、先祖の命日になると線香をあげに訪れたという。一番奥の建物は1930(昭和5年)年に建てられた最も古いもので、吹き抜けの倉庫として使用されエレベーターも設置されている。屋上には当時、「任天堂」と描かれた大きな看板が一文字づつ設置されていた。建物入口付近の壁には「かるた・トランプの山内任天堂」という文字が書かれていたが、本社移転後に間違ってくる人もいたため、90年代半ばの改築工事で外された。建物内部はとても凝った装飾が立ち並び、アールデコ調の模様、ステンドグラスやタイル、照明にいたるまで細部に渡って強いこだわりが見られたという。本社横にあった古い子民家は老朽化のため、2004年に取り壊されている。当時は他人に貸していたが、雨漏りがひどかったため、しばらく空き家として放置されていたという。(※2)
積良は家業のほかにも京都の東山地区にまとまった土地を購入したりするなど不動産事業にも取り組んだ。1947年(昭和22年)には任天堂の販売小会社「株式会社丸福」を設立し、製造と販売ラインを分け、社内体制の合理化を図った。

    出典

  • ※1 Yuji Mikami所蔵
  • ※2 山内任天堂の元従業員、眼科・外科医療 歴史博物館の証言(2002年頃に取材)、まいまい京都主催の内部見学者の証言(2019年)