第3章 三代目社長 山内 溥

山内溥の誕生と青年時代

任天堂旧本社

鳥羽街道駅前に建てられた当時の工場(旧本社)(※1)

山内積良と妻・貞の間に生まれた子供も、先代同様に娘ばかりであった。そのため積良は長女の君(きみ)に工芸家の家に生まれた稲葉鹿之丞(いなば しかのじょう)を義父と同様に婿として迎え入れた。
女系家族だった山内家にも1927年(昭和2年)、山内 鹿之丞と君の間に待望の男の子「溥(ひろし)」が誕生。(本名は「博」であるが、山内溥元社長が50歳を迎えたときに、電話帳を眺めていたら自分と同じ名前が多くあったため、改名したと言われている)(※2)山内家四代目にしてようやく養子社長に終止符を打つはずだったが、溥が幼いころに父・鹿之丞が突如出奔してしまったのだ。溥の母・君は任天堂の販売小会社を預かっていたため、溥は祖父母の元で育てられることとなった。
もともと我が道を行き、自己を貫き通すタイプであった若き溥は、とても剛健な少年へと成長したという。父の不在、祖母の素朴な優しさの影響を受けて育った溥は、賢明で慎重ながら疑い深く、他人に左右されない性格となり、やがてとても鋭い判断力を身につけたのだった。「オヤジが私の幼い頃死んだので、祖父から育てられた。いわゆる"おじいちゃん子"として男でも好きなようにさせてくれた」(※3)と溥はいう。第2次世界大戦の最中、中学生だった溥は軍需工場へ働きに出ることを余儀なくされたが、それ以外は何不自由することなく祖父のもとで育っていった。
積良は終戦後、国内需要の落ち込みをカバーするため、戦勝国へと販売ルートを広げて「ナポレオン」という会社を起こすが、失敗に終わっている。

三代目社長 山内溥

山内溥

任天堂三代目社長 山内溥(※4)

日本が敗戦した1945年(昭和20年)、早稲田大学専門部法律科に進学した溥は、祖父が整えた縁談にのって「稲葉七宝」の娘、稲葉 美智子(鹿之丞と同姓だが、血縁関係はない)と学生結婚した。さらに祖父は、孫のために東京都渋谷区松涛にある日本でも屈指の高級住宅街に一軒家を買い与えて住まわした。終戦直後で国民の大半が貧困状態だったころ、「京都のぼんぼん」と呼ばれていた溥は、大学生活を謳歌。ビリヤードクラブに通いながら、庶民には手の届かないレストランでビフテキを頬張り、ワインをたしなむ贅沢な暮らしをしていたという。しかし1949年(昭和24年)、積良が倒れたことで大学4年生だった溥は急遽、京都に呼び戻され、会社を継ぐようにと命じられた。
「祖父は働く以外に何の楽しみもない人で、倒れても僕のことを心配してくれていたんや。迷いませんでしたか、と聞かれても困る。他に誰も家業を継ぐものがいない。私が継がなければ会社の従業員も手張りの職人も路頭に迷うことになる。会社を継ぐ意思は薄かったが、私がやらなければやる人がいない。わたしはこれを運命だと思った」(※2)溥は祖父に対し、「山内家の人間は、自分一人で十分です」と親族従業員の排除を条件に、任天堂三代目社長として家業を引き継いだ。その時の彼は若干22歳という若者だった。そのわずか2年後の1927年に積良は66歳の若さでこの世を去った。
本来、家業を継ぐはずであった溥の実父・鹿之丞は山内家の恥とみなされ、溥は一生会うことはないと思っていた。しかし後年、年老いた鹿之丞は前妻の君に連絡し、息子に会いたいと懇願してきた。母の意向もあって会うことを拒否した溥だが、それでも鹿之丞はあきらめず、手紙を書き続けた。そのうち自らが病を患い、余命いくばくもないことを告げた。溥は実父に会う決心をし、1974年(昭和49年)、2人は40年ぶりに再会を果たす。その後わずかにして鹿之丞は静かに息を引き取ったという。

花札、トランプ工場の内部

花札、トランプ工場の内部(※1)

任天堂を引き継いだ溥だが、先代社長とは対象的な性格だったという。彼の祖父・積良は真面目一辺倒で、根っからの働き者だった。旧社屋の壁には「真面目であれ」「よく働け」「きまりよくせよ」と3つの標語が貼られていた。しかし溥は、「社是とか社訓とかいったものはジャマになる。『一寸先は闇』のこの業界で、こうしなきゃならんなどという固定的な考え方は、なんらプラスにならない。それどころか、自ら負けを招くようなものです」(※)と言い切り、さらに「祖父の社訓は、あくまで祖父のもの。決して僕のものではない。」と言い、祖父を尊敬しつつも固定観念に捕らわれない人生を楽しむ生き方を選択した。(※1)
当時の任天堂はカード事業を主力とした従業員100人程度の中小企業だったが、先代社長が死去したことで、「任天堂もこれで終わった」「ぼんぼんの若社長になにができる」と周囲の目は冷ややかだったという。そういわれた溥は無性に腹が立ち「花札屋のボンと言われるのがいやだった。こうなれば維持でも家業を継いでやる」と心に誓い、さまざまな改革を行った。
1949年(昭和24年)、山内任天堂の販売会社だった「丸福かるた販売株式会社」、翌1950年(昭和25年)に「任天堂かるた株式会社」と社名変更し、かるた類の製造業務を継承し、翌1951年(昭和26年)には、2つの事業体をひとつに統合して「任天堂骨牌株式会社」を設立。(骨牌とは「かるた」を意味している)
1952年(昭和27年)には、製造工場の集約化を推し進めるため、祖父が京都市東山区福稲上高松町に購入した土地に隣接した敷地を買い足し「花札屋に工場はいらない」という職人たちの反対を押し切って、木造ではあるが立派な工場を建て、花札やトランプ製造の近代化に踏み切った。彼の行動に古くからの従業員は反発したが、溥はこうした保守的な任天堂の社員たちを次々と解雇し、改革を断行した。

    出典

  • ※1 『任天堂会社案内』(任天堂骨牌株式会社/1950年頃)
  • ※2 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)
  • ※3 『財界』(1978年10月15日号)「TVゲーム戦争に火をつけた任天堂山内溥」
  • ※4 64DD専用ソフト『タレントスタジオ』社長挨拶
  • ※5 『任天堂 新しい遊びを演出する』(比々新三著/朝日ソノラマ刊/1982年)