第4章 現社名「任天堂株式会社」へ

労働争議の激化

任天堂労働争議

1955年5月24日、工場閉鎖・首切りと戦う任天堂の闘いの様子(※1)

工場の新設により山内は創業以来、初めて融資を受けることとなった。任天堂の労働組合は、「この若くて未熟な経営者は100名あまりの従業員をまとめるのにふさわしくない」と考えた。しかし、彼らの要求が無視されたことによって内部は分裂したため、山内溥反対派がストライキののろしをあげた。当時は日本各地で労働運動が激化していた時代で、これによって多くの会社や経営者が潰れていった。山内も労働争議の洗礼を受け、労働組合のストライキに対して工場を閉鎖したり、名古屋に別会社を作ったり、拠点をホテルや東京都中央区のお寺に作ったりして沈静化しようと躍起になった。この激しい闘争が数ヵ月に渡って続いた後、山内溥は労働組合に対して解雇を要求。とても横暴なやり方だとマスコミに非難の目で取り上げられ、地元京都の労働運動史にもその時の状況が鮮明に残されている。山内は体調を崩し、病院に入院しながらも労働組合との交渉を続け、1955年(昭和30年)に収束。このとき山内の若き日の苦しい経験が、経営者としての信念や決断力に大きな影響を与えたといわれている。
「わたしがやるべしと判断したら、断固やります。それが経営者の責任だからです。会社のことは何が起ころうと、それは最終的にわたしの責任なんだから、自分に納得のいかない状態で経営を遂行することは、義務の放棄でしょ。もしそういう人がいたら、経営者の資格はありませんね。」(※2) 山内は若々しく冷ややかな態度を示す一方で、その責任感の大きさも身をもって知ることとなる。以降、任天堂では労働組合が結成されず、定年退職制度も採用されなかったという。

プラスチック製トランプの開発

プラスチック製トランプ

プラスチック製トランプ(1953年)

山内は新設した工場にて新しいトランプの開発に着手した。従来の紙製トランプは折れやすく、周囲が毛羽立ったり手の油が染みついたりするといった欠点があった。研究の末、任天堂骨牌は1年以上かけて新素材を使ったトランプを考案。1953年(昭和28年)に、わが国で初めてのプラスチック製トランプの開発に成功し、量産を開始した。
価格が従来の倍近くとなったこのオールプラスチック製トランプは、当初伸び悩んだものの、その高い品質が徐々に理解され始め売上も向上。1955年以降になると、プラスチックでなければ売れないほどに需要は伸びた。青年社長の読みは当たり、家業を継いで以来の大きなハードルを見事に超えたのだった。

ディズニートランプで子供向け市場へ

任天堂骨牌の売上は、高度経済成長の波に乗って3億円台に上昇。ちょうどこのころ、子供たちの間でディズニー漫画が流行っているというのを耳にした山内は、トランプの絵柄にキャラクターをあしらった商品を思いつく。今でこそキャラクター商品はごく一般的だが、当時は大人の遊びだったトランプの絵柄にそうした発想はまだなかった。1959年(昭和34年)、山内は米国ウォルト・ディズニー社と交渉し、ミッキーマウスなどのキャラクターの使用権を取得することに成功。ディズニーの人気キャラクターたちを絵柄にした「ディズニートランプ」を発売した。
この年の4月には皇太子殿下のご成婚が全国のテレビに流れ、テレビの普及台数が急激に伸びると同時に日本中が沸いた。山内はテレビを使って任天堂骨牌としては初となるディズニートランプのCMを流した。加えて、当時人気のテレビ番組「マジックスクール」の中でディズニートランプを使った手品を披露。こうしたプロモーション活動によって、ディズニートランプは子供たちの間で爆発的なヒット商品となった。

ディズニートランプ

ディズニートランプ(1959年)

任天堂は、それまで大人の遊びだったトランプにキャラクターを載せることで、新たな需要を掘り起こした。トランプというハードに、遊び方のルールというソフト(PG(プレイングガイド)というミニブックを同梱した)をつけたことも、ヒットに繋がった。このとき山内は、ハードの上にソフトという遊び方を載せれば無限に広がるというハードとソフトの重要性に気づいたという。
また、ディズニートランプの大ヒットによって任天堂骨牌は全国のデパートや玩具店、文房具店へと販売ルートの拡大にも成功。1960年(昭和35年)になると、トランプや花札の大量生産機を独自に開発し、生産性が大幅に向上した。大量生産によるコスト削減とディズニートランプによる売上・収益増で会社の業績は大きく伸び、1962年(昭和37年)1月には大阪証券取引所二部と京都証券取引所に上場を果たした。こうして広く株主に対して社会的責任をもつ企業へと成長したのである。
山内はこの発展を多様化したいという思いから1963年(昭和38年)、社名からかるたを意味する「骨牌」を取り、現在の「任天堂株式会社」へと変更した。

    出典

  • ※1 『京都労働運動史年表 1945-1955年』(京都府労働経済研究所編/1965年)
  • ※2 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)