第5章 経営の多角化

経営の多角化

サンオー食品「ポパイラーメン」の景品「ポパイトランプ」

サンオー食品「ポパイラーメン」の景品「ポパイトランプ」

1956年(昭和31年)11月、山内溥は当時世界最大といわれたトランプ会社「U.Sプレイング・カード」社の工場を視察し、そのスケールが小さかったことに落胆したという。山内が家業を受け継いでから任天堂は株式上場を果たし、近代的な企業へと成長した。老舗の後継者としては立派に成功し成熟の域に達していたが、このままカード屋を続けていくことは山内の体質にどうしても合わなかったという。
「我々の商売は、本来なくてもいいもの。目が覚めたら市場が消えているかもしれない」若い山内はカード会社の将来に漠然と不安を感じ、多角化への思いを募らせた。「企業においては、確かに冒険精神は必要不可欠のものだが、なにも現在、小は小なりにうまく暮らせているものを、わざわざヤケドしに行くことはないという気持ちも、私にはあります。任天堂の場合、どこへいっていいのかわからなかった。だが、現実になにかしなければ会社がなくなってしまう。そういう危機感がひじょうに強かったんです」山内はいう。(※1)
同時に若さと圧倒的な野心を原動力に、山内は任天堂が新しい事業を始める好機とも捉えていた。彼は「会社の伝統を汚す」と渋った祖母の反対を押し切って、より楽しい製品が登場しても生き残れるように安全で実用性が高く、将来性のある分野への参入を決意し、任天堂の活動を多角化させてようと舵を切ったのである。

タクシー事業への参入

南ヤサカ交通本社

南ヤサカ交通本社。看板にはダイヤタクシー時代の菱型のロゴが残る

まず始めに親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、タクシー事業へ参入。1960年(昭和35年)10月に「ダイヤ交通株式会社」を設立した。この会社は、トランプのダイヤをエンブレムにしたタクシー会社で、ピーク時には40台近くを営業車両を保有するほど業績は好調だった。しかし高額な請求をしてくるタクシー運転手の労働組合と決裂したことで、1969年11月に名鉄グループに譲渡し、経営から手を引いた。山内の作ったダイヤタクシーは、現在ヤサカグループの「南ヤサカ交通」が所有しており、そのロゴはクローバーに変わって存続している。

インスタントライスの開発

ダイヤ交通設立と同じ時期に、お湯を入れるとご飯ができるインスタントライスを開発。当時インスタントラーメンを始めとするインスタント食品が登場し、一般家庭に浸透し始めた。食品産業は安定しており、一定の成長が見込める分野と考えていた山内は京都大学の生活研究所でインスタント食品の実験を試みた。この業界の先駆者は麺市場に参入していたため、任天堂は近江絹糸と京都大学の生活研究所の力を貸りて、「三旺(サンオー)食品株式会社」を運営し、インスタントフードを開発。その後、任天堂が事業を引き受けて、京都府宇治市小倉町(現・任天堂宇治小倉工場)に工場を建設。1961年(昭和36年)に「ふぐ茶漬け」などのインスタントライスを発売した。お粥のような出来に山内自身も落胆したが、強行して商品化。しかし結果は散々だったという。1962年にはふりかけの「ディズニーフリッカー」、1965年には「ポパイラーメン」などを発売するが、どれも上手くいかずに同年に撤退。
ほかにも任天堂の事業とは別に国内で急成長を遂げていた部屋を時間貸しする事業も手がけるが、いずれもノウハウ不足によって失敗に終わる。 それでも山内は「企業はアドベンチャー精神をもって、常に事業をやらないといけない。ウチは、アドベンチャービシネスで商品開拓をやっていくつもりです」(※2)と現在のベンチャー企業に通じる魂を持って果敢に挑戦したという。

インスタントライス

任天堂の子会社「サンオー食品」のインスタントライス

「やった結果が失敗だったら、それは九十九パーセントまでは俺の責任や。やらんうちからクチャクチャいうタイプは好きやない。やらんうちからとやかく言うな。それはぜったいにいかん」(※4)というのが山内の口癖らしい。加えて「運が良かった」ことも常に強調している。たとえ結果がよくても、「『この結果は俺の経営がうまかったんだ』とか『俺に力があったんだ』なんて思うと、もう駄目ですね」「運を認めないといけない。運を実力と錯覚するということは、これほど愚かなことはないんです。経営者としてね。ところが、人間ですからついつい運の存在を無視して『俺の力だ。俺のやり方が良かったんだ』と言いたいんですわ、人というものはね。それは駄目」(※3)山内は過信を極端に嫌っており、どんなに成功しても周りにひけらかしたりはせずに分をわきまえている。任天堂にはこうした山内の考えが徹底しているという。
経営の多角化を推し進め、新規事業の失敗を多く経験した山内だったが、それでも次なる新事業に取り組む意思を固めていた。だだし、任天堂のルーツは娯楽であり、畑違いの商売に手を出すべきではないことを肝に銘じた。同時に新たな事業では「ディズニートランプ」から始まってトランプや花札で築いた任天堂がもつ最強の資産の一つ「日本全国のデパートや玩具店などへ流通経路」を有効活用すべきという結論に達した。

実用品市場への参入

コピラスとママベリカ

簡易コピー機「コピラス」と母乳車「ママベリカ」

しかし1970年代に入っても、山内は娯楽ビジネスには徹しきれなかった。このころは全国の流通ルートを利用し、玩具的な発想を生かした実用品の研究を行っていた。1971年(昭和46年)に任天堂事務機事業部を立ち上げ、簡易コピー機「コピラス」を発売。1972年(昭和47年)にはベビーカー「ママベリカ」や家庭用の綿菓子機「キャンデーマシン」、音楽用のリズムマシン「エレコンガ」、プラスチック製の棚「ユニラック」、フタをしめわすれても乾かない文房具用のペン「ノンドライ」、健康器具「パンチブイ」など、さまざまな分野の実用品を開発するが、任天堂の柱となるには至らなかった。任天堂のさまざまな部署を渡り歩いた大西 康博はこれらの商品に対して、当時のインタビューでこう答えている。 「こういう体質のマーケットを相手にしていますから、なんとか安定したい。なんとか掴みたいみたいなところがあると思うんですよ。だからといって他の会社と同じことをやってたら、単なる販売競争に陥るだけ。商品力に何を求めるか、となれば、これは値段ということになってくるわけですね」(※4)

    出典

  • ※1 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)
  • ※2 『創』(創出版/1973年11月)「連載 企業調査レポート 京都の地場産業-任天堂の正念場」
  • ※3 『電子立国4 ビデオゲーム巨富の攻防』(相田 洋、大墻 敦著/日本放送出版協会/1997年)
  • ※4 『任天堂の秘密』(上之郷 利昭/現代出版/1986年)