第6章 室内玩具とゲームの開発

室内玩具とゲームの開発

旧任天堂本社入口前の看板

旧任天堂本社入口前の看板

1970年代初頭の任天堂本社

1970年代初頭の任天堂本社(※1)

大ヒットした「ディズニートランプ」も東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)には売り上げが鈍り、「日本中の子供たちの手にディズニートランプが渡ってしまった」と山内はいう。オリンピック需要に期待し、ミッキーやドナルドなどディズニーキャラがペアになった絵柄のスポーツシリーズやPG(プレイングガイド)という遊び方の本をセットにしたダブルケースで売り出すなどそれなりの工夫をしたが、業績を回復するまでにはいたらなかった。
「ヒットは、はかないものだとつくづく感じた。ヒットしているうちに善後策を考えておかないと手痛い目に遇う」(※2)山内は「子供たちはゲームにすぐに飽きてしまう」というゲーム業界の厳しい現実を知った。国内市場が飽和状態なら海外に輸出を試みたが、トランプは1回で使い切るのが当たり前だった欧米では、任天堂のプラスチック製トランプが受け入れられなかった。経営の多角化にも失敗し、会社の利益は減少。倒産の危機に直面しながら山内は金策に走ったという。
「もし、会社を上場していなかったら、あのとき潰していたかもしれない」(※2)ディズニートランプの大ヒットによって業績が向上し、その勢いで会社を上場させたが、そのまま安易な考えでは続けていけないことに山内は気づく。「いやしくも株式会社にする以上、あの会社の株を持っていてよかったという意識を株主が持てるよう、そういう状態に企業をマネージメントするのが経営者の役目だ」(※2)山内が学んだのは、もっと先を見越した上での新しいことへの挑戦で、そのためには有能な人材を集めなければならなかった。こうして任天堂の将来に向け、頭の切れる大卒の人材確保に動くが、花札、トランプを主体とする当時の任天堂で働きたい思う学生は少なかったという。それでも1963年から翌年にかけて求人広告を出したところ、後の広報室トップとなる今西 絋史とゲーム&ウオッチなどを生み出す横井 軍平の2人の青年が任天堂に入った。

任天堂のオリジナルブランド「役満」

任天堂オリジナルブランドの麻雀牌「役満」

任天堂は1963年から室内ゲームの販売を開始したが、主力商品はあくまでも花札、トランプだった。これらのカードゲーム類は季節商品だったことから、それ以外の時期は囲碁や将棋、麻雀牌など伝統的なボードゲームを販売して、何とか食いつないだ。その中でも「役満」ブランドの麻雀牌は、軌道に乗って人気を博した。さらに売上確保のために、海外製ボードゲームの権利を買って、国内での販売を開始。
ディズニーキャラクターを使用したボードゲームも多く販売し、さらにはハンナ・ハーベラのようなアニメスタジオからもキャラクターの権利を獲得した。1963年には海外の取引先へのアピールも含めて、「ニッポンゲーム」という小会社を設立。しかし、いくつかの版権ゲームを販売するにとどまり、同ブランドは姿を消した。1964年(昭和39年)には、昔ながらの俵ころがしゲーム「ラビットコースター」が、ちょっとしたヒット商品となって会社の収益を支えた。その一方で、海外で成功したゲームでも、日本では上手く受け入れられなかったものもいくつかある。1966年(昭和41年)に発売した「ツイスターゲーム」は、アメリカのベストセラー商品だったが、日本人には馴染めなかったため、大きな売上には繋がらなかった。
任天堂が作るのは普通の玩具でなく、カードゲーム類に代表されるようなゲームとして遊べる商品だ。単なる道具として売るよりも、テレビなどでプロモーションしやすく、どのように売るのかが重要だと山内は説いた。

横井 軍平の入社

ウルトラハンド

若き日の横井 軍平(※3)

ウルトラハンド

ウルトラハンド(1966年)

任天堂の運命を変えたのは、1965年(昭和40年)に入社してきた横井 軍平だった。横井は1942年(昭和17年)に京都で生まれ育ち、子供のころからモノ作りが大好きな少年だ。彼の父親は地元の製薬会社で働いていた。同志社大学の電子工学科を卒業した横井は、同僚が大手電機メーカーに就職していくの中で、就職試験に次々と落ちてしまったという。仕事に特別な夢を持っていたわけでなく、地元の京都から離れたくなかった彼は、京都の老舗カードメーカーとして有名だった任天堂に就職。当初は花札やトランプ設備の保守点検という簡単な仕事を任されていたが、仕事があまりにも暇だったため、会社の工具を使って自前のおもちゃを作って遊んでいた。それをたまたま目にした山内が、横井を呼びつけて商品化を命じてできたのが「ウルトラハンド」(1966年)だった。任天堂のオリジナル玩具第1号となったこの商品は、玩具の世界で10万個売れれば大成功といわれていた時代に、120万個以上を売る大ヒットとなって会社の業績に貢献。
この成功によって横井は保守点検の仕事から新設された開発部署に移動となった。開発は横井、経理は今西 絋史というわずか2人の小さな部署だったが、そこで新しい玩具を開発していくことになる。ウルトラハンドの次に横井が次に手がけたのが、ハンドルで車を動かして遊ぶ家庭用の「ドライブゲーム」。これは自身のアイデアでなく社命によって手伝った商品だったが、翌年には家庭用ピッチングマシンの「ウルトラマシン」を開発し、1968年(昭和43年)に発売。プロ野球中継の間にテレビCMを流したのが功を奏し、同年に80万個、翌年には100万個を販売する大ヒット商品となった。
同1968年には、横井とは別の部署から「N&Bブロック」というブロック・トイも発売された。このブロックは世界的ヒット作となったレゴブロックの影響を受けて作った商品だが、レゴにはない独自パーツなどで差別化を図った。当時はプロモーションにも力を入れ、売れ行きは好調だったという。1970年(昭和45年)には横井のアイデアが加わった「N&Bブロック クレーター」が登場。組み立てたブロックがバラバラになるという本来の遊び方とは逆の発想で子供たちに受けた。こうして意欲的な室内玩具を次々と発売したことで、1967年(昭和42年)に任天堂の売上の7割をしめていたカード類が、2年後にはわずか3割にまで減少。室内玩具の販売数が急速に延び、売上高が17億から約2倍となる34億にまで上昇した。(※4)

    出典

  • ※1 『任天堂会社案内』(任天堂株式会社/1970年頃)
  • ※2 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)
  • ※3 ドイツの書籍『ZauberPyramide』
  • ※4 任天堂株式会社 有価証券報告書(1967年~1970年)