第7章 エレクトロニクス玩具への挑戦

エレクトロニクス玩具

ウルトラマシン(1968年)

ウルトラマシン(1968年)

任天堂はいくつかのヒット商品によって、徐々にではあるがカード類からの脱却を図っていく。横井が考えた新感覚のおもちゃが任天堂の方向性をも変えていったのである。山内は自身のこれまでの経験を分析する中である重要なことに気づいた。「自分自身の数多くの失敗と成功から学んだのです。ある会社が繁栄を手にしたければ、既存の市場にただ製品を投下するだけでそれがうまく行くと思ってはいけません。独自の市場を開拓しなければならないのです。」(※1)
「ウルトラマシン」は任天堂にとってのオリジナルの商品でありよく売れたが、玩具業界全体から見るとアイディア商品の域を脱していない。「単に新しいアイディアだけでは、競争に勝ち残れない。息長く競争に勝ち残るには、本当に商品開発力が必要だ」(※1)こう確信した山内は他商品との差別化を徹底しようと、従来の玩具にはないまったく新しい遊び方、楽しさをエレクトロニクス技術へと求めた。
「なぜ、こんなおもちゃの分野に入ったかというと、一番金がかからなくて、一番簡単に、一番てっとり早くやれるものはなにがあるかを捜した結果、自分たちにできるものといえば、やはり娯楽商品しかなかった。だから任天堂もはじめは、おもちゃ屋さんがやるようなことをしていた。

ラブテスター(1969年)

ラブテスター(1969年)

しかし、やっているうちに気づいたのだが、在来の玩具というのは、所詮はおもちゃ屋さんの"舞台"なんです。つまり、プラスチックとか、金属とか、モーターなどを使って作るおもちゃだと、どうしても任天堂より専業の玩具メーカーのほうがうまい。それだけの歴史もあるし、実績もある。そこで、アイディアだけではなく、技術力で勝負しなければ勝てないと思った。それが、われわれがエレクトロニクス・トイに進出したそもそものきっかけなんです」(※2)
こうした想いに横井 軍平が応えた。1969年(昭和44年)に発売した「ラブテスター」は、男女の愛情度が測れる大人向けの玩具。検流計という使い込まれた技術にアイディアを加えることで、まったく新しい商品を生み出す、後の横井軍平の開発哲学となる「枯れた技術の水平思考」を最初に取り入れた初めての商品だった。1971年(昭和46)には電動式の潜望鏡で遠くのものが見れる「ウルトラスコープ」と、光で音声通話が楽しめる「光線電話LT」、翌1972年(昭和47年)には、低価格のラジコン「レフティRX」など、エレクトロニクス技術を用いた玩具を次々と開発。

光線銃SPの大ヒット

光線銃SPシリーズ

光線銃SPシリーズ(1970年)

1970年(昭和45年)、エレクトロニクスを駆使した玩具の「光線銃SP」が大ヒット。商品化のきっかけは、電機メーカーの大手シャープから売り込まれた太陽電池だった。このとき、シャープの営業マンとして任天堂を訪れたのが、後のファミコン開発責任者となる上村 雅之だ。1943年(昭和18年)生まれの上村は大学卒業後、早川電機(後のシャープ)に就職。任天堂を訪れた際、横井との出会いによってともに光線銃の開発を進めていくことになる。
横井は光線銃のターゲットセンサーに太陽電池を使用するアイデアを思いつき、、ライオンが吠えたり、ルーレットが回ったりするなど、光りで反応するターゲットを開発。玩具に高度なエレクトロニクス技術を用いるのは業界初の画期的な試みだったという。しかし光線銃SP発売当初の出足は鈍く、「まったく安全です」とTVCMを強化する一方で、デパートの玩具売り場に射撃コーナーを設置して遊べるようにした。実際に光線銃に触った子供たちはそのしかけに驚き、高価な商品だったにもかかわらず、その年の玩具の売上トップに輝いた。上村は光線銃SPがきっかけとなって、シャープから任天堂に転職。その後、アーケードゲームやファミコン、スーパーファミコンの開発責任者として腕を振るうことになる。
空前のヒット商品となった「光線銃SP」シリーズは、任天堂にとっては未知なるエレクトロニクス分野への大いなる挑戦で、何もかもが手探り状態だった。そのため、故障や返品によるクレームも多く発生し、売れた割にはあまり利益に結びつかなかったという。それでも光線銃が果たした役割は大きく、これまでのカード類から脱却し、どこへ向かうべきなのか模索し続けてきた山内に、同社のこれから進むべき道を確信させたのだった。

光線銃カスタムシリーズ(1976年)

光線銃カスタムシリーズ(1976年)

光線銃SPシリーズの大ヒットで勢いのついた任天堂だったが、翌年に売り出した「光線銃カスタム」は惨敗。「光線銃カスタム」は、野外利用を目的とした光線銃の高級モデルで、100メートル以上の射程距離を実現。価格は銃とターゲットを合わせると1万円を超え、当時の玩具としてはかなり高め。結果、5万個の目標に対し、最初の1ヵ月で売れたのは1000台にも満たず、発売からわずか3ヶ月で撤退を余儀なくされたといういう。高性能とはいえ、当時の玩具としては考えられないような価格の高さが大きな壁となり、さらに100メートル以上の距離をとって遊ぶ場所を見つけることも困難だった。任天堂にとって技術がすぐれた商品であっても、価格が高ければ消費者に受け入れてもらえないという、後の商品展開に大きな教訓を残した。
その後、光線銃カスタムシリーズは、5年後の1976年(昭和51年)にターゲットを一新してリベンジするが、それでも価格の高さがネックとなり、巻き返しを図ることはできなかった。同年に横井は光線銃カスタムを応用し、カモの映像を光りで撃つ「光線銃ダックハント」も開発している。
任天堂がカスタムシリーズで四苦八苦している一方、海の向こうでは光線銃に熱い視線を注いだ人々がいた。1972年(昭和47年)に米国では世界初となる家庭用テレビゲーム機「オデッセイ」が売り出され、その周辺機器として任天堂の光線銃が採用されたのだ。光線銃というエレクトロニクス技術を駆使したアイディアで人々を驚かせた任天堂だったが、このテレビに向けて銃を撃つというアメリカ人の発想には逆に驚かされたという。その後、光線銃はアーケード業界へ進出への足がかりとなったり、ファミコンの周辺機器で使われたりするなど様々な形で発展を遂げていくことになる。

    出典

  • ※1 『プレジデント』(プレジデント社/1985年8月、1986年4月)
  • ※2 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)