第1章 アーケード業界への参入

レジャー産業への進出

レーザークレー射撃システム(1973年)

レーザークレー射撃システム(1973年)(※1)

光線銃SPシリーズの人気も覚めやらぬころ、山内は横井 軍平に「うちの光線銃を使った競技ができないか」という話をもちかけた。当時の日本は、ボウリングブームの真っ只中であったが、山内は早くもポストボーリング時代を思い描いていたという。そこで横井は光線銃の技術を応用し、本物そっくりのクレー射撃が遊べるしくみを考案。
1973年(昭和48年)、任天堂としては初となる大型レジャー施設「レーザークレー射撃システム」をボウリングブームの去った跡地にオープンした。この新手のレジャー施設の登場によって、メディアからの取材が押し寄せ、ブームの下火で閉鎖を考えていた全国のボーリング場からの注文が殺到したという。出だしは好調で任天堂はレーザークレーの機材を大量に作り、全国展開に備えた。さらにはレーザークレーの販売やメンテナンスを行う小会社「任天堂レジャーシステム株式会社」も設立。ところが、その年に起きた第一次オイルショックによる影響でキャンセルが続出し、全国展開の夢は脆くも崩れ去ったのである。社運を賭け、莫大な投資をしていた任天堂は、レーザークレーの失敗によって深刻な経営難に陥ったという。
「いつまでもつか、あのときは毎日が綱渡りのようなものでした」と山内は答える。こうして事業としては失敗に終わったレーザークレーだが、そのときに得た技術や販売ルートは後のアーケード事業の展開に活かされることとなる。業者相手の商売ならば消費者とは異なり、需要予測や生産計画もたてやすく、ある程度の安定が見込める。脱玩具を模索していた山内は、今後の経済の安定とともに再びレジャー産業に日が当たるのを確信し、事業の継続を決意した。
1974年(昭和49年)には、16ミリフィルムの実写映像を使用したエレメカ『ワイルドガンマン』を発売。続いて『バトルシャーク』『スカイホーク』などのガンゲームを次々と発売した。1975年(昭和50年)には、EVRと呼ばれるランダムに映像が切り替わる技術を用いた大型のメダルゲーム『EVRレース』を発売。人気を得たという。

業務用ビデオゲーム機の開発

コンピューターオセロゲーム(1978年)

コンピューターオセロゲーム(1978年)のフライヤー

アーケード事業で一定の成功を収めた任天堂は、コンピューターゲームの開発にも着手。最初に手がけたのは、1978年(昭和53年)に発売した『コンピューターオセロゲーム』だった。当時の任天堂にはオリジナルゲームを作り出す高い技術力はなかったため、当初は他社のヒット作をアレンジしたものや他社(セガやナムコ)からライセンスを得たものなど、ある程度の収益が見込めるゲームマシンを販売した。
その後、マイコンを搭載したインベーダーゲームによる空前の大ヒットを見た山内は、ブーム収束後に多くの企業が撤退する中で、「マイコンのすごさには目から鱗が落ちた」「あのとき、基本的にこの路線で間違いないと確信できた」と自信を見せた。
アーケード業界へ進出したことで、合理的で無駄なく低コストでつくる生産技術も身につけることができ、とりわけ任天堂の技術力は飛躍的に向上。任天堂はかるた・トランプから始まり、室内アナログゲーム、エレクトロニクス技術を取り入れた玩具によってソフト面を強く鍛えてきた。アーケード参入により、それを実現するためのハード面(技術力)が徐々に充実し、1980年代以降になるとマイコンを軸にしたコンピューターゲームで急成長の波に乗ることとなる。だが、山内はこれも「運が良かった」だけと言い切る。

業務用ビデオゲーム機の開発

スペースフィーバー(1979年)

スペースフィーバー(1979年)のフライヤー

1978年(昭和53年)、タイトーが発売した『スペースインベーダー』が日本中で大ブームを巻き起こした。一時期は日本中で100円玉が不足したほどの人気ぶり。押し寄せる需要に本家のタイトーだけでは生産が追いつかなかったため、一部のメーカーに対してライセンス販売を認めた。しかし、タイトーの許諾なしにインベーダーゲームを製造・販売するメーカーが後を絶たず、任天堂も『スペースフィーバー』という名で、インベーダーゲームのアレンジ版を販売していた。タイトーはこうしたメーカーに対して訴訟を起こしながらコンピューターゲームの知的財産権を主張するが、当時はまだビデオゲームのプログラムが著作物として法的には認められていなかった。そのため、ヒット作が出るとことぞって他社が似たゲームを作って販売するのが当たり前だった。タイトーはインベーダーという新しい遊びを実現しているプログラムは著作物であり、当然それは法的に保護されるべきだと強く主張。対して山内は、当時のTV番組でこう発言している。
「遊び方にパテント(特許)はないわけです。したがって、コピーしようという気持ちがあれば、コピーできるわけです。それに対して、適切な手があるかといえば、ないわけです。要は、そういう考え方を捨てて、これからのアミューズメント業界の発展のために、相互にソフトを公開して、この新しく巨大な、そして衰えることのない産業を発展させていくことが必要です。インベーダーが衰えても、マイコンを軸とした遊びは栄えていくわけですからね。秘密というような考えかたを捨てて、互いが開発した優れたものを交流していくことが大切だと思います」(※2)
つまり遊び方に著作権などの特許を認めたら、それが一つの会社や個人に独占されて広まらないという。ソフトウェアプログラムが著作物であると法的に認められるようになると同時に、会社の規模が大きくなるになった任天堂は、その後コピー商品は許さず秘密主義体制をとるようになったが、当時は台所事情も含めて状況は違った。山内の主張が変わったのは、「ゲーム&ウオッチ」ブーム時に他社からの類似品氾濫によってライフサイクルを短くなってしまったことや、ファミコン発売直後のアタリショックによる急激なゲーム市場の縮小を目の当たりにしたからだった。

米国任天堂の設立

山内は1970年代後半ころから任天堂のアメリカ進出を考えていた。長男の克仁(かつひと)はまだ経験が浅かったため、娘婿の荒川 實(あらかわ みのる)を任天堂に迎え入れた。1948年(昭和23年)京都生まれの荒川は京都大学を出た後、ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業し、丸紅商社の海外営業マンとして働いていた。山内の誘いを受け入れた荒川は、家族とともに米国へと移り住み、1980年(昭和55年)、ニューヨーク州にあるビルの一室に現地法人を設立した。
最初の仕事はアーケードゲーム『レーダースコープ』の拡販だったが、失敗。かわりとして作られた『ドンキーコング』が大ヒットしたことで、任天堂は米国での知名度をあげた。その後、ドンキーコングの海賊版に悩まされるが、違法業者を次々と訴えて勝訴し、米国での基盤を固めた。同じ頃『ゲーム&ウオッチ』のダブルヒットによって任天堂の業績は一気に好転し、1983年(昭和58年)には東京証券取引所一部上場を果たすとともに大きく成長した。

ドンキーコングの大成功

ドンキーコング(1981年)

ドンキーコング(1981年)のフライヤー

1979年(昭和54年)に発売したアーケードゲーム『シェリフ』『スペースファイアバード』のキャラクターデザインを担当したのは、当時入社2年目の宮本 茂(後の『ドンキーコング』『スーパーマリオブラザーズ』などの生みの親)だった。その宮本が本格的に開発したのが、1981年(昭和56年)発売の『ドンキーコング』だ。
1952年(昭和37年)生まれの宮本は、1977年(昭和52年)に金沢美術工芸大学の工業デザイン科を卒業し、父親の友人のツテもあって任天堂に入社。山内は「技術屋なら欲しいが、絵描きはいらん」と思っていたが、宮本に会うなり「何かつくってほしいのや」と繰り返し発言したという。
宮本の才能が開花したのは、「ドンキーコング」の開発だった。このゲームは設立したばかりの米国任天堂の要請によるものだが、当初ポパイを主役として開発が進行。しかし版権元の許諾を受けるのが遅れてしまったため、ゲーム内容やキャラなどが差し替えられ、ドンキーコングやマリオが誕生した。これらのキャラクターはもちろん、プログラム以外のほとんどは宮本が手がけたという。
ゲーム内容はドンキーコングに捕らわれたレディをマリオが救いだすというアクションゲーム。建設中の工事現場を舞台に、構成の異なる4ステージを攻略。シンプルなステージの繰り返しが多かった当時のゲームの中で、ストーリー性をもたせた点が斬新だった。また、ジャンプアクションを軸にした最初のゲームともいわれ、日米で大ヒット。海外ではコピー品が多く出回るほどの人気となり、当時無名だった任天堂の名を一躍世に広めることに成功した

アーケードからの撤退

VSシステム(1984年)

VSシステム(1984年)(※3)

1982年(昭和57年)以降、続編の『ドンキーコングJR.』『マリオブラザーズ』『パンチアウト』など後のファミコンにも移植されるタイトルが次々とアーケードに登場し、ゲームセンターなどで人気を博した。1984年(昭和59年)には、ファミコンの技術を応用して作られた前後に2つのモニターを搭載した「VSシステム」を開発。『VSレッキングクルー』や『VSバルーンファイト』など対戦に特化したタイトルを発売した。しかし、翌1985年(昭和60年)には山内の「アーケードはもうやめや」と言ってアーケード事業は急激に縮小され、ファミコンに専念する体制が取られた。当時、アーケード事業の責任者だった駒井 徳造(元任天堂取締役、後のセガ・エンタープライゼスの元副社長)がこれに反発し、退職した。1987年(昭和60年)にはアーケードの小会社「任天堂レジャーシステム株式会社」を解散し、アーケード事業から撤退(海外では1990年初頭まで続けられた)した。

    出典

  • ※1 レーザークレーフライヤー(1973年)
  • ※2 NHKテレビ番組ルポルタージュにっぽん「インベーダー作戦」(1979年)
  • ※3 VSシステムフライヤー(1984年)