第2章 家庭用テレビゲームへの参入

家庭用テレビゲームへの参入

カラーテレビゲーム6と15(1977年)

カラーテレビゲーム6と15(1977年)

日本の家庭用テレビゲーム機の歴史は、1975年(昭和50年)にエポック社から発売された『テレビテニス』から始まる。この頃のゲーム機の性能は低く、ゲーム内容自体もラケットにボールを当てて遊ぶ単純なテニスタイプのものがほとんどで、あらかじめ本体側に内蔵されていたゲームしか遊べなかった。それでもコンピューターゲームが初めて一般家庭に入ってきたときは、誰もがその新しい遊びに驚いたという。テレビ番組を見るの電化製品であることが常識だった時代に、画面のキャラクターをコントローラで自由に動かせること自体が斬新だった。白黒テレビからカラーテレビへと時代が変わっていくなか、任天堂はそれまでモノクロ画面で2万円以上した高価なゲーム機をカラー画面で1万円を切る価格で売り出し、業界を震撼させた。それが1977年(昭和52年)に発売された任天堂初の家庭用テレビゲーム機『カラーテレビゲーム6』と同『15』で、1万台売れればヒットと言われた時代に合わせて100万台以上(※1)を売る大ヒットを記録。百花繚乱だったテレビゲーム市場のトップに踊りだし、他社もこれに追随。この年、バンダイやトミー、エポック社などの玩具メーカーから次々と低価格の家庭用テレビゲーム機が発売され、第一次テレビゲームブームとして子供たちを中心に賑わいを見せた。

レーシング112(1978年)

レーシング112(1978年)

ブームの火付け役となった任天堂だが、当初テレビゲーム市場への参入には冷ややかだったという。それはこの時代、市場に出回っていたテレビゲーム機の価格がどれも高かったからだ。山内社長は「これは値段や。1万円を切ればいける」と開発に言ったが、他社製品が2万円以上している中、それは不可能に近かった。それと任天堂には、これまで築きあげてきた全国への販路はあるが、テレビゲームを開発するだけの技術力はなかった。そこに技術力はあっても販路がなかった三菱電機から声がかかり、両社はテレビゲームの共同開発に乗り出すことで合意。三菱電機の技術と、いいものを安く売る任天堂のノウハウがうまく絡み合い、価格を1万5000円にまで落とすことに成功。それでも山内社長は1万円以下というインパクトにこだわったという。これを実現するため15種類のゲームのうち9つを省き、コントローラも本体に直付けした廉価版の『カラーテレビゲーム6』を9800円として、それを目玉に『15』を売る戦略をとった。その結果、任天堂の思惑通り5000円高くても『15』のほうがよく売れたのだ。
ブロック崩し(1979年)

ブロック崩し(1979年)

その後、初期型では実現できなかったパドルの操作性やACアダプタに対応するなど細かな改良もなされ、価格や見た目の美しさだけでなく、遊びやすさ、楽しさ、故障のしにくさなど任天堂が玩具で培ってきたノウハウが存分に活かされた製品に仕上がった。
1978年(昭和53年)には三菱電機の協力を得ながら、任天堂が初めてゲーム開発に参加したレースゲーム『レーシング112』を発売。これは112通りのレースゲームが遊べ、ハンドルを付けてインパクトまで演出したが、単一ゲームだったこともあって売上は伸び悩んだ。翌1979年(昭和54年)に発売した『ブロック崩し』では、任天堂が初めて独自に回路を設計。自社で開発した自信は、これまでのゲーム機には見られなった任天堂のロゴが本体前面に刻印されていることにも表れている。『ブロック崩し』は、約40万台を販売するが、『カラーテレビゲーム6』や『15』ほどの大きなヒットはなく、任天堂は「ブロック崩し」を最後に家庭用テレビゲーム機の販売を一旦ストップ。しかし、同社のの技術者たちは家庭用ゲーム機の制作によってソフトウェアの技術を学んだことで、後のファミコン開発に大きく役立ったという。

    出典

  • ※1 『週刊ダイヤモンド』(ダイヤモンド社/1978年1月28日)