第3章 ゲーム&ウオッチの誕生と経緯

ゲーム&ウオッチの誕生

ゲーム&ウオッチプレイスタイル

当初は手のひらに隠して遊べるサイズだった

「ゲーム&ウオッチ」は、1980年(昭和55年)4月に発売された任天堂初の携帯型液晶ゲーム機だ。その名のとおりゲームと時計が合体し、コマ送りのような独特なキャラの動きや電子音が特徴。開発コンセプトは通勤中のサラリーマンの息抜き用だったにもかかわらず、シンプルでありながら奥深いゲーム性が受け、子供たちを中心に爆発的な人気を集めた。商品化にいたっては当時、山内社長を車で送迎する際に風邪で休んだという運転手の代わりをつとめた横井が何気なく話したのがきっかけだった。横井の「電卓のようなゲーム機を出したら面白い」というアイデアを、その日たまたま会合で会ったシャープの社長に話しをしたことから、すぐに開発がスタート。任天堂社内での反応は冷ややかだったが、社長がやれというから誰もノーが言えなかったという。
当初は大人向けに手のひらサイズ、シンプルなボタン操作で開発されたが、予想に反して子供たちに受けたため、シリーズ化されることとなる。シリーズ化されるたびに進化していくゲーム&ウオッチは、3シリーズ目のワイドスクリーンでは画面が大きくなり、カラフルでキャラクター性豊かなゲームが登場。
発売から2年後の1982年(昭和57年)になると、玩具市場にはゲーム&ウオッチの類似品が溢れて飽和状態となるが、「2つのゲームを同時に遊べないか」という山内社長のアイディアからマルチスクリーンシリーズが誕生。従来の価格と同じながら2画面という斬新さ、コンパクトのように折り畳める携帯性が受けて、大ヒットとなる。このシリーズを一躍有名にしたのは、当時アーケード用として人気だった『ドンキーコング』の移植だった。このゲームではプレイヤーのマリオが上下左右に移動するほか、ジャンプするアクションがあったため、ゲーム&ウオッチで再現するためにはジョイスティック機能の搭載が欠かせなかった。薄い本体に如何にジョイスティック機能を搭載し、手元を見ずに遊べるのか。横井ら開発チームは様々な試作品を作って突き詰めていった結果、十字ボタンが誕生。十字ボタンはゲーム&ウオッチ搭載後も、任天堂のゲーム機はもちろん、世の中の様々な製品に応用されるほどすぐれたデバイスとして重宝された。だが考案者の横井自身は、十字ボタンがゲーム&ウオッチ本体への収納性やコスト削減を考えた苦肉の策であった側面もあり、すごい発明だとは思っていなかったという。

ゲーム&ウオッチ晩期

ドンキーコング(1982年)

最も売れたゲーム&ウオッチ『ドンキーコング』(1982年)

1983年(昭和58年)に入ると、ファミコンを中心とした家庭用テレビゲーム機の人気に押されて、ゲーム&ウオッチ市場は急激に縮小。そんな中で任天堂はフルカラー画面のカラースクリーン テーブルトップシリーズを開発。その数ヶ月後には、改良版のパノラマスクリーンシリーズを発売して巻き返しを図った。しかし、同年7月には「ファミリーコンピュータ」が発売され、子供たちの関心もテレビゲームへとシフト。低空飛行を続けながら、85年(昭和60年)の「ブラックジャック」を最後に国内での発売を終了した。全39種類が発売され、1,287万個が販売された(全世界で59種類、4,340万個を販売)。ゲーム&ウオッチは、任天堂にとって2つの面で大きな転機となった。ひとつは財務体質が改善されたこと。任天堂には当時、70億円近い借金があったといわれるが、ゲーム&ウオッチの大ヒットによってすべて返済。さらには40億ほどの貯金ができたという。
もうひとつは、ゲーム&ウオッチは海外でもよく売れ、同社の世界進出への足がかりとなったこと。国内では他社からの類似品が市場に溢れ、2~3年のライフサイクルでファミリーコンピュータへとシフトしたが、海外では10年以上に渡って緩やかに売れ続けた。中には海外だけのオリジナルシリーズも登場。国内での未発売タイトルも多くあり、これらのタイトルの一部は、1996年ころに国内の大手量販店を中心に逆輸入という形で販売されたこともあった。

    出典

  • ※1 『任天堂会社案内』(任天堂骨牌株式会社/1950年頃)
  • ※2 『財界』(1978年10月15日号)「TVゲーム戦争に火をつけた任天堂山内溥」
  • ※3 64DD専用ソフト『タレントスタジオ』社長挨拶
  • ※4 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)