第4章 ファミリーコンピュータの誕生

ファミコン開発秘話

ファミリーコンピュータ本体

ファミリーコンピュータ(1983年)

ファミリーコンピュータ(以下「ファミコン」)の開発は1981年11月、任天堂・山内溥元社長の「『ゲーム&ウオッチ』の次はテレビゲームや」と同社開発チームに命じたことから始まったと言われている。ROMカセット式の家庭用ゲーム機自他は、すでに複数のメーカーから販売されていたので、珍しいものではなかった。この頃はゲーム&ウオッチが一大ブームを巻き起こしていたが、他社の類似品が市場に溢れて飽和状態であったため、任天堂はゲーム&ウオッチの次を模索。ファミコン開発にあたって山内が出した条件は「1年間は他社が真似できないもの」「価格は1万円以下」(※1)だった。上村 雅之率いる任天堂の開発チームはファミコンには8ビットCPUを搭載し、米国アタリ社の家庭用ゲーム機になぞってROMカセット交換方式の採用が決定。まずCPUの設計・製造において、ゲーム&ウオッチで忙しかったシャープが外され、当時国内では認知度の低かったリコー製「6502」を採用した。このチップが選ばれた理由は、小さくて低コストなのはもちろん、アーケードで大ヒットした『ドンキーコング』の移植が可能だったからだ。どの玩具メーカーも家庭用ゲーム機には型落ちパソコンのICを流用していたが、任天堂はファミコン専用のICを使って、52色の鮮やかな画面と業務用に近い動きや表現、音質を実現。また、ハードの大きな機能面では、各社がパソコン兼用かゲーム専用機かで揺れる中、キーボードを搭載しないゲーム専用機かつ、玩具臭を出さない方向で開発が進められた。

これがファミリーコンピュータだ!

無料配布された冊子「これがファミリーコンピュータだ!」

ファミコンのコントローラーは当初、ジョイスティックとの一体型で進められていたが、開発の中盤からコントローラー2個を収納できるタイプに確定。操作部分もゲーム&ウオッチで実績のあった十字ボタンが採用された。その理由は、子供が踏んでも怪我せず、壊れにくいという安全面と低コストによる採用だったが、結果的に手元を見なくても操作しやすい優れたデバイスとなった。さらにIIコンとローラーにはマイク機能を搭載し、声で認識するゲームなどにも対応できるようにした。本体色は山内がお気に入りだったえんじ色が採用され、デザインのバランスから考えて白がベースとなった。この段階ではシンプルで面白みのない本体だったが、ROMカセットがポンと取り出せるイジェクトスイッチが搭載され、遊び心を押し出した。ボディには丈夫で熱に強く美しいABS樹脂が使用され、デザイン面でのコストアップは避けられなかった。当時市場に出回っていたゲーム機よりも優れていたという自負から「1年間は他社が真似できない」という条件はクリアしたが、肝心の価格が2万円近くになってしまったという。そこで、CPUを当時としては異例ともいえる大量発注を行い、コントローラーも本体直付けにして、コストダウンを図った。
また、ハードよりもソフトの売上で採算をとる方針でコストを削り、価格を1万5000円にまで引き下げることに成功。
こうしてファミコンは、業務用並の性能を持ちつつも、山内の鶴の一声でさらに200円下げた1万4800円での販売に踏み切った。他社に比べて原価が高く、ハードでの利益は薄いことから問屋や小売店に敬遠されたが、山内はソフトによって大きな利益がでることを強調。ほとんどのメーカーはハードで利益を出すことが重視されたが、任天堂はソフトでの利益による販売体制を崩さなかった。
「ファミリーコンピュータ」という名前が決まったのは発売間近で、開発コードも「ヤングコンピュータ」や「GAMECOM」など色々な呼び方をされていたという。品番をつけるために一旦「HVC(ホームビデオコンピュータ)」としたが、その後「ホームコンピュータでもパーソナルコンピュータでもない家庭用コンピュータなら、ファミリーコンピュータだ」という案が出て、山内に却下されたものの、製品の特性をよく表しているとして最終的に採用。
ちなみに略称の「ファミコン」は、シャープが電子レンジの商標(家電区分)として持ち、娯楽用具にも登録されたため、しばらくは使用できなかったが、後に娯楽用具における商標を任天堂に譲渡している。こうしてファミコンは、発売約3カ月前の1983年春に流通関係者向けの「初心会」展示会にて初めて披露された。そのまま量産体制に入って7月15日の発売を無事迎えたが、当初は出足は任天堂が想定しているよりも鈍かったという。また、最初の半年においてはトラブルが続出して一時は回収騒ぎにもなったが、その後は順調に出荷台数を伸ばし、家庭用ゲーム市場を形成していった。

ソフト重視の販売戦略

ドンキーコング(1983年)

ファミコン初のソフト『ドンキーコング』(1983年)

ファミコンと同時発売されたソフトは『ドンキーコング』『ドンキーコングJR.』『ポパイ』の3本で、いずれもアーケードゲームからの移植だった。任天堂は、ゲームソフトに焦点を絞る一方で、ファミコンブームを終わらせまいと周辺機器の拡充にも力を入れる。1984年(昭和59年)には『光線銃』シリーズや『ファミリーベーシック』、翌1985年(昭和60年)には『ロボット』を発売するが、普及に一定の役割を果たしたものの短命に終わっている。また、ファミコン発売から約1年間は自社タイトルのみ作っていたが、ソフトの充実と他のゲーム機との差別化から、山内は翌年からサードパーティの参入を認める。1984年(昭和59年)に初のサードパーティとなったハドソンに続きナムコが参入。『ロードランナー』や『ゼビウス』といったサードパーティ製ソフトが大ヒットし、ファミコン市場を大いに盛り上げた。この年、100万台以上のファミコンが販売され、家庭用ゲーム市場シェアの約9割を押さえた。翌1985年(昭和50年)には、アイレム、エニックス、コナミなどのサードパーティが参入し、ファミコン市場はより一層の広がりをみせた。

ファミコンブーム開花

スーパーマリオブラザーズ(1985年)

スーパーマリオブラザーズ(1985年)

ファミコン人気が高まっていく中、1985年9月13日にファミコン人気を決定付けた傑作ソフト『スーパーマリオブラザーズ』が発売される。このゲームはクッパにさらわれたピーチ姫を救うため、マリオ(ルイージ)が地上や地下、水中、雲の上など多彩なコースを冒険するというもの。子供たちはこれまで体験したことのないおもしろさに衝撃を受け、そのウワサは瞬く間に全国へと拡大。ファミコン本体と同時に買う人も増え、爆発的に人気に。ブームに乗ってマリオを中心としたキャラクターグッズも数多く登場し、街中いたるところでスーパーマリオのBGMを耳にするほどの勢いだった。スーパーマリオ以降、ファミコン本体の普及台数は400万台以上に達し、スーパーマリオ自体も681万本というファミコンで最も売れるタイトルとなった。サードパーティも前年の2社から17社に増え、新作タイトル数はこの年だけでも69本が発売、バラエティ豊かなソフトが100タイトルにも膨れ上がった。同年末には、米国でもファミコン(製品名は「NES(NINTENDO ETNTARTEINMENT SYSTEM)」)が発売され、生みの向こうでも日本同様に爆発的な人気となった。

    出典

  • ※1 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)
  • ※2 『財界』(1978年10月15日号)「TVゲーム戦争に火をつけた任天堂山内溥」
  • ※3 64DD専用ソフト『タレントスタジオ』社長挨拶
  • ※4 『任天堂商法の秘密』(高橋 健二著/祥伝社刊/1986年)