第5章 夢いっぱい ディスクシステム

大容量で安価なディスクシステム登場

ディスクシステム本体

ディスクシステム(1986年)

1986(昭和61年)年2月21日、ファミリーコンピュータの周辺機器として『ディスクシステム』が発売。ファミリーコンピュータ発売から3年が経過し、任天堂はユーザーが今後も5000円近いソフトを買ってくれないだろうと考え、安価なメディアを使ったプラットフォームの開発に踏み切った。このころ、ハドソンからICカード構想が持ち込まれたがコスト面から見送られ、ROMカセットの約3倍の容量だった安価な「クイック・ディスク」(ミツミ電機の磁気ディスク)を採用。ゲームソフトの価格はROMカセットの半値となる2500円程度が設定され、ゲームデータを磁器ディスクにセーブでき、わずか500円で違うゲームソフトに書き換えられるようにした。この書き換えサービスは、全国の小売店にディスクシステム専用書き換え機「ディスクライター」を設置することで対応。この書き換えサービスが普及すれば、お店は在庫を持たなくて済むし、面白くないゲームはユーザーの意思によって次々と書き換えできるため、面白いゲームだけが市場に残るというメリットがあった。
ディスクシステム本体はファミリーコンピュータの下に置き、アダプタ接続で利用できるタイプとして設計。新たな音源チップも搭載され、価格はファミリーコンピュータと同程度の1万5000円に決まる。また、違法コピー対策もなされ、ドライブとディスクカードに刻印された「NINTENDO」ロゴがかみ合わせることで純正品を判断。さらに、ディスク1枚分のデータを連続して書き込めないようにするなどの機能制限が加えられた。

普及したファミコンを最大限活用 ファミコンネットワーク構想

ゴルフJAPANコースチラシ

第1回ファミコンディスクトーナメント告知チラシ(1987年)

任天堂は、1986年(昭和61年)1月時点で全国に600万台以上普及したファミリーコンピュータを利用し、情報ネットワーク構築を考えていた。インターネットのない時代に、ファミリーコンピュータの全国的なネットワークを作る壮大な取り組みを行おうというのだ。その仕組みは、家庭にある電話回線とモデルアダプタを使ってディスクシステム同士をネットにつなげるというインターネット時代を先取りしたもの。実現すれば、遠く離れたプレイヤーとの対戦やデータ交換などが可能となり、当時としては活気的な取り組みだった。まず第1段階として任天堂はユーザーに対し、通信による「ゲームの移動」を体験してもらおうと、全国的なゲーム大会を開催した。1987年(昭和62年)2月21日、通常のディスクカードとは異なる青いシャッターの付いたカードを採用した『ゴルフJAPANコース』を発売。ユーザーは、自分の記録したデータを「ディスクファックス」設置店に持ち込めば、ディスクファックスを通じて任天堂にデータを送ることができた。ランキング上位者には豪華な景品が用意され、子供だけでなく大人にもアピール。このゴルフゲームの大会には、10万人以上の参加者が集まり、一定の成果をあげたという。
その後も続編の『ゴルフUSコース』や『ファミコングランプリ F1レース』によるゲーム大会を開催。同年12月にはゲーム大会だけでなく、人気アイドルを起用したアドベンチャーゲーム『中山美穂のトキメキハイスクール』を発売し、ゲームクリアの仕方によって異なる中山 美穂のオリジナル景品を用意。しかし、アイドルが題材のゲームはユーザー層を狭め、ゲームのヒントが聞けるテレフォンサービス(ゲーム中、画面に電話番号が表示され、実際にその番号にかけるとゲームのヒントなどが聞けた)も、間違い電話によるクレームが続出したという。ユーザー参加型のゲーム大会は、翌1988年(昭和63年)の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』を最後にディスクファックスによるサービスを終了。参加者の減少とディスクシステム自体の伸び悩みが大きく影響したといわれている。

ディスクシステムが縮小した理由

ディスクライター

全国の小売店3,200カ所に設置された「ディスクライター」のチラシ

ディスクシステムは、ファミリーコンピュータの周辺機器でありながら、一大プラットフォームを築くことに成功。同時発売された『ゼルダの伝説』が人気を博し、初年度で約224万台も売れたが、以降は年を追うごとに75万台、29万台、11万台と出荷台数を落としていく。人気が落ちた原因の1つに、ROMカセットの大容量化があった。半導体技術の日進月歩により、ディスクシステム発売後まもなくして、ROMカセットがディスクカードの容量を上回ってしまったのだ。データのセーブ機能もROMカセットに特殊な電池を搭載することで可能となり、ディスクの優位性は徐々になくなっていく。また、ソフトメーカーの大半もディスクの供給には消極的で、初期の頃からサードパーティとして活躍しているハドソンやナムコはオリジナルタイトルを1本も出していない。さらにディスクシステムは、小売店や流通業界からの支持が低かったという。ROMカセットの半値以下で、書き換えにいたってはわずか500円。ユーザーにとって夢のような価格でも、お店にしてみれば利益率の低い商売であり、流通にいたってはほとんどメリットがなかったという。

ディスクライター回収後も書き換えは継続

任天堂自身も1988年(昭和63年)10月発売の『スーパーマリオブラザーズ3』ではROMカセットを採用し、ディスクでの供給を徐々に減少させてる。それでも過去のゲームを安価に供給し、一般ユーザーの作ったゲームに書き換えて遊べるようにするなど、1992年ころまで細々と供給が続けられた。翌1993年になると全国のお店3,200カ所に設置されたディスクライターが回収され、以降の書き替えは任天堂本社や各営業所で継続。そして2003年9月、約18年に渡って続いた書き換えサービスが惜しまれながら終了となった。その後は本体修理も2007年に終了し、ディスクシステムは長い歴史に幕を閉じた。