第6章 ファミコンバブルから衰退まで

ライセンス制度の導入

1982年末、米国では当時爆発的に普及したアタリ社の家庭用ゲーム機『アタリ2600』を中心にゲーム市場が崩壊するという出来事があった。俗に「アタリショック」と呼ばれるこの事件は、低品質のソフト氾濫によるユーザーのゲーム離れを招いたとして知られる。アタリの成功と失敗を手本にしてきた任天堂は、ソフトメーカーが自由にソフトを作れることが、アタリの二の舞を踏んでしまうと危惧し、独自の販売ルールや保護技術を作って、ファミコン市場を守ろうとした。まずは商標に頼りに「ファミリーコンピュータ、ファミコンは任天堂の商標です」という記載をファミコン関連すべての商品にした。商標権によってファミコンブランドのタダ乗りを禁止し、「不正競争防止法」で訴えられるようにしたのだ。また、内部が少しずつ異なるファミコン本体を8種類用意し、任天堂の許可なく作ったソフトを動かせないようにした。つまりはサードバーティがファミコンでゲームソフトを発売するためには、任天堂とのライセンス契約を結ぶ必要があった。ライセンスの大きな条件としてあげられるのが、(1)公序良俗に反さないこと、(2)ソフトの年間製造本数を1~5本以下にすること、(3)ROMカセットの生産は任天堂に委託すること、というもの。初期に参入したサードパーティ5社以外はこれらの条件を厳守させることで、ファミコンソフトの発売を認めた。

ファミコンブーム最高潮に

ドラゴンクエストIII(エニックス/1988年)

社会現象となった『ドラゴンクエストIII』(エニックス/1988年)

1984年(昭和59年)、ファミコンは累計出荷台数100万台を突破。1986年(昭和61年)には600万台、翌1987年(昭和62年)には1000万台と爆発的に普及し、「一家に一台」の時代に迫ろうとしていた。時はバブル絶頂期で、玩具メーカーやゲームメーカーはもちろん、異業種からのファミコン参入も相次いだ。任天堂はライセンス制度によるソフトの品質管理を徹底し、粗製乱造防止に努めた。その一方でサードパーティ製ソフトからもヒット作が次々と登場し、中でも1988年(昭和63年)に発売されたエニックス社の『ドラゴンクエストIII』(以下「ドラクエ」)で、ファミコン人気は頂点に達した。このファミコンで生まれた続編の人気はすさまじく、全国各地のお店にはドラクエを求める長蛇の列ができ、学校を休んで買いにいく子やソフトをひったくる子まで現れ、トラブルが続発。これらの出来事はマスメディアにも大きく取り上げられ、ファミコン人気は広く社会にも知れ渡るようになる。

市場に溢れるソフトたち

ファミコンの独走が続いた1987年(昭和62年)、ライバルが出現。NEC-HE(NECホームエレクトロニクス)が『PCエンジン』、セガが翌1988年(昭和63年)に『メガドライブ』をゲーム市場に投入した。いずれもファミコンを上回る性能で、ゲーム熟練者たちを中心に人気を集めた。一方、大量のファミコンソフトが発売され続けるに従ってユーザーの目は肥えていき、ファミコン発売の1、2年目と比べて売れるソフト、売れないソフトの差がはっきりと出るようになった。1989年には全部で168タイトルものファミコンソフトが発売されたが、一部のヒット作を除いてほとんどが売れなかったという。お店はワゴンセールの実施や発売日を無視したフライング販売などを行って在庫処分に奔走。中には売れないソフトと人気ソフトを抱き合わせて売るものも現れ、任天堂が問題視するようになる。また、中古ソフトを取り扱う「ファミコンショップ」なども全国各地に現れるなど、新たな流通システムが築かれた。さらに任天堂のライセンスを得ていないゲームソフトやファミコンの改造機器を売る業者も現れるが、任天堂の息のかかった一般の流通や小売店には並ばず、独自の流通で細々と販売するにとどまった。任天堂は、無許可のゲームソフトに対して警告したり、ファミコンショップへライセンシー制度を与えたりするなど、ファミコン市場の維持に全力を注いだ。

ファミコンネットワーク

通信アダプタ

ファミコンで株の売買や馬券購入が可能だった『通信アダプタ』。出荷数は13万台程度

1987年(昭和62年)夏、山内から任天堂の開発チームに「ファミコンを使ったネットワークを野村証券と共同開発することを検討せよ」との指示が下りた。野村證券からファミコンを使った株取引できるハードウェア開発を依頼されたのだ。野村証券側がデータベースを用意し、任天堂側が『通信アダプタ』の開発を担当。任天堂は将来性を見据えて、証券情報以外のサービス展開ができる専用カートリッジが入れ替え可能な本体を開発した。1988年(昭和63年)7月、野村證券はファミコンを移用した「ファミコンホームトレード」サービスを開始し、関係者に向けて通信アダプタ1500台を配布。同時期にマイクロコア社も、山一證券やブリヂストンと組んだファミコン・ネットワークサービスを始めており、大人向けのこれらのジャンルも競争が激化。日本競馬協会(JRAA)も通信アダプタを使用して馬券在宅投票サービス「JRA-PAT」を開始。一方、任天堂も玩具店や流通関係者向けに「スーパーマリオクラブ」を結成し、ファミコンソフトの評価を閲覧できるネットワークサービスを開始した。同時に通信アダプタを利用したネットワークゲームの開発も行うが、発売するまでにはいたらなかった。通信ソフトの中には山内の強い要望で開発した囲碁ゲームも含まれていたが、後年コナミが通信カードで販売している(任天堂で開発したものかどうかは不明)。これらのファミコン・ネットワークサービスは、ゲーム展開を考えていた任天堂の思惑通りには進まなかったが、後のスーパーファミコン向け衛星データ放送サービス進出の足がかりになったともいわれている。

ファミコン晩期

子供たちの関心が薄かった大人向けのファミコン・ネットワークサービスが加熱する中、ファミコンは教育分野でも注目された。福武書店(ベネッセの前身)やコナミは、ファミコン向けの学習教材にも力を入れ、前者は学習用のカセットテープを読む込むための専用アダプタ「スタディボックス」、後者は『NHK学園』などファミコンで学習できるアダプタ「Q太」などを販売し、不ファミコンの利用用途を拡大した。
ファミコン発売から7年目の1990年(平成2年)、任天堂はファミコンの後継機となる16ビット機『スーパーファミコン』を発売。それでもファミコンはまだ現役で、同年には過去最高となる170タイトルにもおよぶゲームソフトが発売された。しかし、ファミコンの人気タイトルの続編が次々とスーパーファミコンで発売されるようになると、ファミコン市場は縮小。任天堂も1993年に発売した『ゼルダの伝説1』と『ワリオの森』を最後にファミコンソフトの開発をストップした。翌1994年にはサードパーティ製ソフトも発売終了となり、スーパーファミコンへとシフト。数々のヒット作を生み出し、家庭用ゲーム市場の基礎を築いた任天堂は、ファミコンソフト発売終了後も本体の製造だけは続けていた。それもファミコン発売から20年目を迎えた2003年、部材調達の困難を理由に生産を終了。日本国内で1935万台(全世界で6291万台)を出荷したエポックメイキングだったファミコンは、こうして幕を閉じた。