第7章 もう一つの柱となったゲームボーイ

ゲームボーイ開発秘話

ゲームボーイ本体(1989年)

ゲームボーイ(1989年)

1989年4月21日、任天堂はカセット交換式の携帯ゲーム機『ゲームボーイ』を発売した。世間の目が開発中のスーパーファミコンに向けられる中、ひと昔前を思わせるモノクロ画面のゲームボーイには誰もが驚いた。ゲームボーイ開発が始まったのは、ファミリーコンピュータブームの最中だったという。ゲーム&ウオッチ開発がひと段落した横井率いる開発第一部は、次なるゲーム機としてゲーム&ウオッチのマルチソフト化に取り組んでいた。ゲームボーイの開発コードネームは「DMG(ドット・マトリクス・ゲーム)」と呼ばれ、山内から「販売価格を1万円以下にせよ」と強く言われていた。開発にあたって横井が気にしていたのは、電池寿命と液晶の視認性だった。当時流通していたカラー液晶のバックライトは野外の明るい野外では見づらく、電池のもちも2時間くらいと短い。
カラー化のメリットよりもデメリットが多いク、コストも割高になったことからゲーム画面に使う液晶はモノクロ画面が採用され、CUPやグラフィックスはファミリーコンピュータ技術がベースとなった。それでも液晶ディスプレイを使う限り、ファミリーコンピュータよりも安い価格に押さえるのは困難だったが、液晶の上に駆動ICを直接乗せた「チップオングラス」という最新技術を導入したシチズンよりも安く、大量生産可能なシャープ製の液晶を使うことで解決。シャープはゲームボーイ専用の液晶ディスプレイ生産に40億円を投じて設備増強にあたる。ところが、本体の試作品を見た山内が画面を覗く角度によって見えないことに気づく。「こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」と事実上の開発中止とも取れる発言をして、ゲームボーイ開発の雲行きは怪しくなった。追い詰められた横井だったが、シャープが液晶改善したことで、ピンチを切り抜けた。なんとか上限の1万円を死守しようと必死にもがいたが、プロトタイプを見た山内は、「これならもう少し高くても売れる」と判断し、価格は1万2500円にするように指示。1万円以下にするため、メモリーを削るなどコスト削減に努めた横井を始めとした開発者はガッカリしたが、原価的に余裕がでたことで、ヘッドホンと単三電池4本を同梱することになった。
ゲームボーイ発売後に山内は次のように述べている。「発売当初、カラーが常識とされる時代の中で、モノクロ商品を出して、これは任天堂は少しおかしいのかといった見方がありましたね。だからあまり売れないんじゃないか、と。しかしこの商品というのは、どこでもいつでも遊べるもの。汽車の中でも飛行機の中でも、あるいは海水浴に行っても、山に行っても、どこででも持ち歩きができて遊べる、それが狙いだったわけです。そんな商品を作れば日本だけでなく、アメリカでも、あるいはほかの国々にも大きく売れるんじゃないかと思ったわけです。ところがカラー液晶というのは今の技術では太陽の下へくると見えにくくなってしまう。さらに単三電池を使って、モノクロの十分の一しか時間がもたない。そんな商品は、そもそも携帯ゲーム機としてユーザーの満足を得ることができない。だから任天堂はゲームボーイをモノクロ液晶にしました」(※1)
ゲームボーイは当初、充電式で開発されたが、山内の「外人は充電してまで遊ばん」という判断から乾電池式に変更されたという。結果、ゲームボーイは世界中でプレイされるようになり、ファミコンなどの据え置き機とは異なる市場を形成。この後に発売されたカラー液晶の『ゲームギア』(セガ/1990年)も圧倒し、任天堂の大きな柱となるまでに成長した。

テトリスの権利を取得

テトリス(1989年)

ゲームボーイ普及に貢献した『テトリス』(1989年)

ゲームボーイの普及に大きな役割を果たしたのが、ゲームボーイ登場から約2カ月後に発売された『テトリス』だ。これはロシアの数学者アレクセイ・パジトノフが開発したパズルゲームで、1988年ころに世界中で大ヒット。このゲームの権利を最初に取得したのがイギリスのミラーソフト社であり、その権利を米国アタリ社に与えた。セガもアタリの子会社テニゲンから『テトリス』の権利を獲得し、アーケード版を販売して人気を集めた。ファミコン版もBPS社から発売され(BPS社のヘンク・ブラウアー・ロジャースがテニゲンから権利を取得)、任天堂開発チームにもサンプルが回っていた。任天堂がゲームボーイ用に対戦型テトリスをテスト開発したところ社内で評判となり、同社はテトリスの版権取得に乗り出した。家庭用ゲーム機の権利はBPSがすでにもっているが、携帯ゲーム機の権利なら販売数が増えて権利元も喜ぶと任天堂は考えた。
ところがテトリスの価値に気づいたロシア政府は、資産管理の部署ELOGを作り、権利関係を整理。任天堂がEROGと直接交渉をする過程で、移植版の多くが大元の有する権利でないことが判明したのだ。任天堂は大元の権利を得て、ゲームボーイ版『テトリス』を発売。これによって、PC向けの権利しか与えられていなかったミラーソフト社から取得したアタリの権利が消滅し、テニゲンやセガの権利も失われ、特にセガはメガドライブ向けに製造していた『テトリス』の販売中止を余儀なくされてしまう。(BPSは家庭用ゲーム機の正式な権利を取得)『テトリス』の家庭用ゲーム機の権利を獲得した任天堂は国内だけでも424万本を出荷し、任天堂の思惑どおりゲームボーイ普及に大きく貢献した。

衰退から復活へ

ポケットモンスター 赤(1996年)

ポケットモンスター 赤(1996年)

1994年11月、任天堂はコピーライター糸井 重里の提案で、初代ゲームボーイのカラーバリエーション『ゲームボーイブロス』を発売。だが翌年には、スーパーファミコンやプレイステーション、セガサターンなどの攻勢に押され、ゲームボーイ市場は消滅しかけてしまうが、1996年発売の『ポケットモンスター赤/緑』(以下「ポケモン」)の大ヒットが起爆剤となり、見事に復活を果たした。同年、小型化した『ゲームボーイポケット』も発売し、ポケモンとの相乗効果で大きく販売台数を伸ばした。一方、ゲームボーイは早くからカラー液晶の試作機が任天堂社内で作られていたが、山内の「面白いゲームソフトが市場を作る」という考えから、ハード開発が保留となっていた。しかし1997年ころ、シャープから新しいカラー液晶の売り込みがあったのをきっかけに、バンダイの携帯型ゲーム機『ワンダースワン』の発売にも対抗しようと、山内はゲームボーイのカラー化を決断。これまでに発売されたゲームボーイ用ソフト1600本以上との互換性と、早急な発売が言い渡され、開発陣はわずか10カ月間での開発を余儀なくされる。急ピッチで開発が進められたため、カラー対応のゲームソフトの用意が間に合わず、任天堂はサードパーティのエニックスに『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』のカラー化を働きかけたという。1998年10月に発売された『ゲームボーイカラー』は、対応ソフトもままならない状況だったにもかかわらず、全世界で2000万台を超える大ヒットを記録。後継機『ゲームボーイアドバンス』開発の足掛かりとなった。