第8章 ファミコンの後継機 スーパーファミコン

スーパーファミコンの誕生

スーパーファミコン(1990年)

"スーパーファミコン(1990年)

ファミコンの大ヒットで家庭用ゲーム市場を築いた任天堂は、1990年11月21日にファミコンの後継機『スーパーファミコン』を発売。スーパーファミコンが1988年11月に発表されたときは、翌年7月の発売を予定していたが、半導体不足などを理由に発売を延期。この時期、ゲームボーイや海外向けファミコン『NES』が順調に売れていたことから、生産の余力がなかったと任天堂は主張した。スーパーファミコンの度重なる発売延期は、ファミコンと競合しないように時期を見計らったためとか、実際は開発が間に合わなかったなど、さまざまな憶測を呼んだ。発売が大幅に遅れたことで結果的にはライバル機種へのけん制となり、ユーザーの期待感を高めた。スーパーファミコン開発にあたって、当初はファミコンソフトも動くアダプタの発売も検討されたが、山内は「スーパーファミコンを購入する人はファミコンを既に持っている人が前提」と結論付け、互換性を外した。
スーパーファミコンのグラフィック能力は、当時出ていたどの家庭用ゲーム機よりも高く、3万2000色中256色の同時表示が可能。回転・拡大・縮小機能、モザイク処理、半透明、多重スクロール機能も搭載し、サウンドにはソニーのPCM音源が使われ、生演奏に近いリアルな音楽を実現した。コントローラーはファミコンを踏襲しつつ、誰でもも握りやすい丸を基調としたデザインを採用。従来のA・Bボタンに加えてX・Yボタンが追加され、十字上に並べて4色にわけられた。側面にはさまざまなゲームに対応するためにL・Rトリガーが搭載され、後の家庭用ゲーム機におけるスタンダードを築いた。本体価格は、ファミコンよりも1万円程度高い2万5000円となった。

発売からの経緯

スーパードンキーコング(1994年)

スーパードンキーコング(1994年)

スーパーファミコンと同時発売された『スーパーマリオワールド』『F-ZERO』は、スーパーファミコンの性能を存分にアピールしたソフトだった。サードパーティ製ソフトも年内に7本が発売され、スーパーファミコンは理想的なスタートを切った。本体は発売直後から爆発的に販売台数を伸ばし、ファミコンでの人気シリーズの続編やサードパーティ製ソフトが充実。発売1年半後には400万台以上の本体が販売され、100万本を超える人気ソフトも多く登場した。しかしゲームの大容量化に伴い、ROMカセットの価格が1万円前後にまで上昇。
ゲーム画面はドット絵から奥行きの概念を持つ3Dポリゴンへと進化する過渡期で、大容量で安価なCD-ROMへの期待が高まっていた。1994年になるとCD-ROMドライブを搭載した次世代機と呼ばれるマシンが販売数を伸ばしたが、任天堂は当時最先端の3DCGで表現した『スーパードンキーコング』(1994年)で対抗。イギリスのレア社と組んで開発したこのソフトは300万本以上を売り上げ、スーパーファミコンでもここまでできるという実力を見せつけた。

幻のプレイステーション計画

スーパーファミコンCD-ROMアダプタの予想図(『ファミリーコンピュータマガジン』1992年2月7日号から)

スーパーファミコンCD-ROMアダプタの予想図(※1)

1989年10月、任天堂はソニーと共同でスーパーファミコン用CD-ROMアダプタの開発に乗り出した。開発コードネームは『PS-X(プレイステーション)』。これは、スーパーファミコン用音源チップの開発と供給を行ったソニーの久夛良木健(SCE元社長)が任天堂に提案したもので、後のプレイステーションの原型となったマシンだ。ソフトとなるCDは、当時音楽メディアとして普及していたが、ゲームで使用しようとしたデータ記録用のCD-ROMは、まだ発展途上の段階だった。
1990年になると、任天堂がスーパーファミコン用のアダプタ、ソニーがスーパーファミコンとの互換性をもつCD-ROMドライブ搭載の一体型機を出すかたちで提携。山内はこの計画を承認し、米国任天堂社長だった荒川 實もこれからはCD-ROMがゲーム機の主流になることを進言した。
任天堂、ソニー両社とも1991年5月に米国シカゴで行われる家電展示会「CES(コンシューマ・エレクトロニクス・ショー)」にて、プレイステーションを発表する予定で動いた。しかし、任天堂は同日に同じ会場で、オランダの電気機器メーカー・フィリップス社とスーパーファミコン用CD-ROMアダプタを開発すると発表。その3日前にはソニー側に通知されていたが、久夛良木には伝わっていなかったため、「裏切り行為」と捉えられてしまったようだ。任天堂が契約を破棄したのは、ソニーに家庭用ゲーム市場を乗っ取られる可能性を恐れたとも言われている。契約上は「ソニーはハードウェアのみ提供し、ソフトには手を出さない」とされていたが、実際にはソニーが任天堂の了承なく試作ソフトのデモを作成。それが山内の逆鱗に触れてしまったとも噂されている。当時、スーパーファミコン用ソフトの開発環境には、ソニー製32ビットワークステーション「NEWS」が使われており、両社の関係は良好だった。だがソニーは契約違反を訴え、幾度となく交渉を持ちかけるが、結局両社は破談。スーパーファミコン用音源チップの供給こそ続いたが、両社の関係性は急速に冷めていったという。それでも訴訟に発展しなかったことから、両社に非があったとされているが、真相は明かされていない。山内は後年、一連の出来事に関して「ソニーとのボタンの掛け違いがあった」とコメント。その後は久夛良木が独自に開発を推し進め、1994年にSCE(ソニー・コンピュータ・エンターテインメント)を設立し、新生『プレイステーション』が誕生している。一方、任天堂は最終的にフィリップスとの共同開発も破談となり、スーパーファミコン用のCD-ROMドライブが世に出ることはなかった。

スーパーファミコン書き換えサービス

全国のローソンに設置された書き換え機「Loppi」

全国のローソンに設置された書き換え機「Loppi」)

任天堂は、1997年12月から東京都内のローソン100店舗でスーパーファミコン用ソフトの書き換えサービス『NINTENDO POWER(ニンテンドウパワー)』をスタート。すでに発売されていた約30タイトルの旧作ソフトに加えて、書き換え専用タイトル『平成 新鬼ヶ島 前編・後編』(任天堂)『同級生2』(バンプレスト)の3タイトルを発売。「ゲームキオスク」構想から始まったこのサービスは、スクウェアが中心となって設立されたデジキューブに対抗し、スーパーファミコンの延命を図ったものだった。デジキューブは、セブンイレブンやファミリーマートなどで初めてゲームソフトを販売したが、任天堂は1998年3月にNINTENDO POWERを全国のローソンへと拡大。旧作だけでも100タイトルを超えるラインナップを取り揃え、新作ソフトも定期的に追加した。2000年3月にはゲームボーイ用ソフトにも対応した。
ゲームを書き込むために必要な「SFメモリカセット」は3980円。これをローソンに持っていけば好きなゲームに書き換えることができた。書き換え方法は、全国のローソンに設置された「Loppi(ロッピー)」のスーパーファミコン用スロットに「SFメモリカセット」を差し込んで欲しいゲームを選択。Loppiから出力される伝票をレジに持っていくと、販売員がその場で書き換えてくれた。書き換え時間は5分から10分程度かかり、価格はスーパーファミコン用の旧作とゲームボーイ用の新・旧作タイトルが1000円、スーパーファミコン用の新作が2000から3000円程度だった。
任天堂は既存のタイトルはもちろん書き換え専用タイトルも拡充させていったが、スーパーファミコン自体が衰退していたことから、サービスは低迷。2002年5月31日にはローソン店頭でのサービスが終了し、その後任天堂にて継続されるが、2007年2月28日には幕を閉じた。NINTENDO POWERは、かつてのファミコン用のディスクライターを思わせる書き換えサービスだったが、当時とは異なりあまり盛り上がらなかった。その原因はさまざまだが、サービス開始がスーパーファミコンの発売7年後だったことや、すでにプレイステーションやセガサターンといった32ビット機が成熟し、プレイステーション2やニンテンドーゲームキューブといった次なる世代のゲーム機が控えていたことにもあったようだ。

    出典

  • ※1 『ファミリーコンピュータマガジン』(徳間書店/1992年2月7日)