第10章 バーチャルボーイの商業的失敗

テレビゲームの原点に立ち返る

バーチャルボーイ(1995年)のチラシ

バーチャルボーイ(1995年)のチラシ

1995年7月21日、任天堂はこれまでのテレビゲームとは異なる方向性の32ビットCPU搭載のゲーム機『バーチャルボーイ』を発売した。次世代機と呼ばれたプレイステーションやセガサターンを横目に、一昔前のような赤一色の映像に戸惑ったユーザーも多い。バーチャルボーイは、豪華な映像と複雑化していくゲームにから、もう一度原点にかえって楽しんでもらおうという任天堂の挑戦だった。スーパーファミコンが大ヒットし、NINTENDO64の発売を待つ中、任天堂は着実に業績を伸ばしてきた。だが、横井軍平はこの状況を冷静に分析し、「ファミコンからスーパーファミコンに移るときに、こんな難しいゲームにはもうついていけないという人がずいぶん出た。新しいゲームを遊ぶ人は投入する金額が大きいですから、一見、売上はいいようですが、ゲーム人口という点では減少しているわけです。NINTENDO64でも同じことが起こる。ですから、任天堂がテレビゲームを追いかける限り、将来はないのではないかと。もう一度、スーパーファミコンやファミコンユーザーを巻き込んだものを作るにはどうしたらいいだろうか」(※1)という気持ちでバーチャルボーイを開発したという。バーチャルボーイは、N64とは違う方向で3Dの可能性を追求したマシンで、高度なゲームを望むファン向けではなく、初心者をターゲットにしたという。開発は、1992年にリフレクションテクノロジー社の航空機の設計図面に使われる「プライベート・アイ」と呼ばれるLEDの売り込みからスタート。プライベート・アイのもつ赤一色のクリアな映像を横井は、暗闇の中から無限に広がる空間を表現しようと考える。そこへ左右の目それぞれに視差のある映像を映すことで、立体視を実現。当初、サングラス程度の筐体を想定していたが、電波漏れ問題と安全性への配慮から、テーブルに置いてゴーグルを覗き込むスタイルとなる。携帯から据え置き型になったことで横井は焦りを感じるが、それでも山内は、バーチャルボーイの斬新な発想が気に入り、発売を決断。日頃から宮本や横井に対し、「3Dはどうや?」「飛びださへんのか?」と言っていたようで、宮本はNINTENDO64、横井はバーチャルボーイで山内の思いに応えた。

バーチャルボーイ失敗の原因

マリオズテニス(1995年)

マリオズテニス(1995年)

任天堂は、モノクロの3D映像ではアピールしにくいと考え、全国のお店に試遊台を設置。バーチャルボーイは、当初300万台の出荷を予定していたが、実際に売れたのは国内で15万台程度(全世界で77万台程度)といわれ、任天堂のハードとしては完全に失敗だった。失敗の原因を任天堂関係者は次のように分析。画面が周囲から見えないバーチャルボーイは、実際に遊んでみないとその面白さが伝わらず、遊んでいる姿も日常に溶け込めるものではなかった。また、発売と同時に施行されたPL(製造物責任)法もマイナスに働き、目に悪そうなイメージがつきまとった。さらにバーチャルボーイの性能を引き出すソフトが用意できなかたのも問題だった。横井は、バーチャルボーイの眼への影響について、早くから米国の眼科医に確認していた。結果、眼の筋肉のストレッチ効果があり、「疲れた」と感じるのも普段使っていない眼の筋肉による心地よい疲れだったという。一方、山内は横井を「先端技術を否定し、昔のゲームの面白さで差別化を考えたいた」と評した上で「バーチャルボーイが失敗したというのは、ソフトが弱かったという点以外に、はやりハードの整備が未熟だったと言えます。もっと時間をかけて工夫を凝らしてやるべきだったと思いますね。(中略)あまりにも早く、中途半端に出してしまった反省はありますね」(※2)と語る。

    出典

  • ※1 『横井軍平ゲーム館』(アスペクト刊 1997年)
  • ※2 経済界「任天堂・山内溥社長が経営不安説に大反論!!」(1996年9月24日)