第1章 ゲームが変わる、64が変える。

NINTENDO64の誕生

NINTENDO64(1996年)

NINTENDO64(1996年)

1995年11月、任天堂は初心会にて64ビット機『NINTENDO64』を世界で初めて明らかにした。NINTENDO64の開発は、「プロジェクト・リアリティ」というコードネームで1993年8月にスタート。任天堂の寡占状態だった1994年から次世代機と呼ばれる大容量CD-ROMを使った32ビット機が登場。松下電器の『3DO REAL』が先陣を切り、SCE『プレイステーション』、セガ『セガサターン』と続き、ゲームの他にも映像や音楽などが楽しめる「マルチメディア」が加熱していた。そんな次世代機競争を横目に、任天堂は独自の道を突き進んだ。任天堂は、世界最高の映像技術をもつシリコングラフィックス社と提携し、プレイヤーの指示にあわせてゲーム画面を瞬間的にレンダリングするフル3D映像を実現。CPUには超高速で画像処理が可能な64ビットを採用。そしてコントローラには、3次元空間を自在に操れるアナログ入力装置「3D(サンディ)スティック」を搭載した。両手で均一に握るのではなく、片方の手でしっかりと持ち、もう片方の手を補助的に添えることで、ゲームの世界に集中できるという。また、ゲームによって、ライトポジション、レフトポジション、ファミコンポジションと3通りの持ち方が可能だ。さらに4つのCボタンユニットが搭載され、カメラワークの切り替えができる。背面にはカメラの視点を戻す「Z注目」などに使う「Zトリガー」と、メモリーパックや振動パックを接続する拡張コネクタを設置。標準で4つのコントローラポートが搭載され、4人同時プレイにも対応した。ソフト媒体には、これまで同様にROMカセットを採用。アクセスが早く、3Dのリアルタイム表現に向いているという。また、カセットに特殊なチップを内蔵させることで、新たな仕掛けを組み込むことも可能だった。『マリオカート64』の4人同時プレイは、ROMカセットだからこそ実現できたと宮本茂はいう。

NINTENDO64の設計思想

「ゲームの本質は何か」を考え続けた任天堂が出した答えは、ソフトの「量的拡大」ではなく「質的転換」だった。ソフトメーカーの参入障壁を下げ、多くのサードパーティを集めたSCEとは対照的に、任天堂は"セカンドパーティ"と称した「少数精鋭」によってソフト供給。ゲームクリエーターに新しいタネと仕掛けを作れる材料を提供することで、ハイレベルのソフトを作ってもらうという狙いだった。「遊んでみて楽しいか面白いかどうかを判断するのがテレビゲーム」山内は他社との違いを強調する。「ユーザーが求めているのは、独創的で今まで体験したことがないような楽しさがあるソフト」山内がNINTENDO64を発売したのは、テレビゲームマーケットを守るためだという。

発売後の経緯

世界初公開された64のイベント告知(1995年)

世界初公開された64のイベント広告(1995年)

こうしてNINTENDO64は、「ゲームが変わる、64が変える。」のキャッチコピーとともに、1996年6月23日に発売。当初は95年末に発売するはずだったが、4カ月遅れの96年4月21日に延期。そこからさらに、ソフト開発の遅れを理由に2カ月遅れの発売となった。出荷数は発売1週間で30万台、2カ月で70万台と勢いを見せたが、以降は売れ行きが鈍化。96年度末までには出荷数360万台を見込んでいたが、売れたのは半分の180万台。一方、価格面にに関して、40000円前後のPSやSSに比べ、NINTENDO64は25000円と安かった。ところが、発売間際にPSとセガサターンが2万円以下に値下げしてきたため、NINTENDO64は競争力を失ってしまう。さらに発売から3カ月間は新作ソフトが発売されず、「少数精鋭」を貫いたことが災いし、サードパーティ離れを引き起こす。それまで任天堂と密接な関係だったスクウェアも、大容量を理由にプレイステーションへと移籍。以降、NINTENDO64のパワーを操れなかったソフトメーカーは、次々とPSに移っていく。NINTENDO64でのソフト作りは、かなりの時間と体力、技術、才能などを必要とし、サードパーティはおろか任天堂自身も苦しめた。任天堂は、リクルートとクリエーターを支援する会社「マリーガルマネジメント」を作ってセカンドパーティの増強を図るが、97年末のタイトル数はわずか50本強だった。対してPSは1000本以上のタイトル数を取り揃え、NINTENDO64と大きく差を付ける。1997年3月14日、任天堂は本体価格を異例の16800円に引き下げ、1998年7月には14000円にまで下げるが、その効果は限定的だったという。FCやSFCで育ったゲーム熟練者たちは、他社のゲーム機に流れ、NINTENDO64は国内では苦戦を強いられた。一方、北米では『スーパーマリオ64』や『ゴールデンアイ007』など人気ソフトに支えられて好調。NINTENDO64は、日本国内では554万台だが、国外では2738万台も出荷。国内ではプレイステーションやセガサターンよりも少なく、据え置き機のトップシェアをSCEに明け渡してしまうが、北米の勢いによってビジネスとしては完全に成り立っていたという。山内は晩年、「ソフト体質ではない新しい開発者が出てきて、ロクヨンのようなものが作られてしまった」(※1)と反省している。

書き込みのできる64DD

64DD(1999年)

ランドネットDDを通して通販された「64DD」(1999年)

64DDは、NINTENDO64の発表と同時に『NINTENDO64 DISK DRIVE』という名で公開されたが、NINTENDO64の普及が進まなかったことから、幾度となく延期されていた。1999年6月、任天堂はリクルートとの共同出資会社「ランドネットディディ」を設立し、『64DD』を正式名称として発売。店頭販売は行わず、クレジットカード決済による会員制のレンタル方式がとられた。64DDは、それまでの完結型ゲームとは異なり、インターネット接続によってゲームの書き換えができるマシンだ。1つのゲームを長期に楽しんでもらおうという取り組みだったが、会員数が伸び悩み、わずか1年でサービス終了となる。会員は10万人限定で募集されたが、集まったのは15000人程度だったという。ネットの接続先が少なく、会費が当初はクレジットカードのみ、すでにNINTENDO64の後継機GCも発表されていたことなどが普及の足かせとなった。周辺機器としては失敗に終わるが、そこから生まれたアイディアは、後のハードやソフトに大いに生きたという。

    出典

  • ※1 『任天堂 驚きを生む方程式』(井上理著、日本経済新聞出版社、2009年)