第3章 受け継がれていく任天堂のDNA

山内の退任 岩田新体制へ

2002年5月24日、任天堂は同社を52年間に渡って率いた3代目社長・山内溥が5月31日付けで退任し、新社長に岩田聡が就任すると発表。当時42歳だった岩田という2年前に中途入社したばかりの「外様」役員の抜擢には誰もが驚いた。山内は、岩田指名の直前に1対1でみっちりと経営哲学を語り、その際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残したという。同時に宮本茂や竹田玄洋を含む6人の代表取締役をたて、「集団指導体制」を促した。

天才プログラマー 岩田聡

任天堂四代目社長 岩田聡(※2)

任天堂四代目社長 岩田聡(※2)

2005年、ゲーム開発者が世界中から集まる「ゲームディベロッパーズカンファレンス」の基調講演にて岩田は自身をこう紹介した。「私の名刺には、社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者、心はゲーマーです」。1959年、北海道札幌市生まれの岩田は学生時代、雑誌に自作プログラムを投稿するなど、その世界では名の知れたマイコン少年だった。趣味が高じて、東京工業大学2年生のときにハル研究所という小さなゲーム会社でアルバイトを始める。
大学卒業後、親の反対を押し切って同社に就職し、ファミコンソフトなどの開発に没頭。プログラマーとしてめきめきと頭角を現す岩田だったが、ハル研究所自体は1992年に和議を申請して事実上の倒産に追い込まれてしまう。このとき山内は「岩田を社長にすること」を条件に支援を申し出たという。33歳だった岩田はこの苦難に挑み、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』を大ヒットさせ、7年あまりで借金15億円を返済。ソフト開発の天才的な資質はもちろん、経営再建を果たした岩田を高く評価した山内は、2000年に彼を任天堂へと招いた。取締役経営企画室室長に就任した岩田は、2年後の2002年5月31日に山内から後継の指名を受け、任天堂4代目社長に就任。山内自身は代表権のない取締役に退き、新経営陣を見守った。その後、岩田はDSやWiiのプロジェクトに挑み、任天堂を大きく成長させた。

深刻化する"ゲーム離れ"

1990年代半ばから約10年間に渡って、任天堂はソニーやセガとの熾烈なゲーム機販売競争を繰り広げ、成長の踊り場に立たされていた。コンピューターゲームは驚異的なスピードで進化し、ソフトメーカーはゲーム好きな人たちの声に応えようと、高性能・大容量化の道を突き進んだ。その結果、複雑化するゲームについていけなくなった人々がゲームから離れ、ゲーム市場は徐々に縮小。山内も早くから「大容量ゲームはダメ。こんなことをしていたら世界中のメーカーが潰れてしまう。重厚長大なゲームは飽きられている。ゲームビジネスの本質は、常に新しい楽しさを開発し、ひたすら完成度を高めていくことである」(※3)と訴えた。岩田も東京ゲームショウ2003の基調講演にて、これまでのゲーム史を振り返りながら「ゲームから離れてしまったユーザーを呼び戻すことが必要です」と語った。社長就任から1年間考えた末、任天堂の進むべき方向を示すこととなる。

娯楽屋として生きた山内

任天堂三代目社長 山内溥(※1)

任天堂三代目社長 山内溥(※1)

任天堂には社是、社訓、名文化された企業理念というものが存在しない。山内自身が企業理念という言葉を嫌っていたのが大きいが、岩田は「社是、社訓がない。ないことが任天堂イムズなんですよね。社是、社訓の通りに働いていたら人々は飽きてしまう」(※4)と解釈している。花札・トランプを起源とする任天堂の体質は古く、山内も例に漏れずに保守性の強い経営者だったという。
「花札とトランプから離れていった理由は、これら伝統的な遊びの人気が落ちたからです。時代が変化したんです。そのためやむを得ず転換を図った。それだけのことでしかない。それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、本当に運がよかったからだ。もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、文字通り試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。要するに、任天堂は運が良かっただけなんですよ」(※5)。
山内は、時代の変化に合わせて新しい事業を手掛けたり、組織を活性化したりする意識は薄い一方で、先祖から受け継いだ会社への思いは人一倍強かったという。祖父から受け継いだ任天堂を守るために懸命となり必死にもがいた結果が、今日の同社を作ったという。
山内は家業だったカードゲームからアイディア玩具を経て、エレクトロニクス技術を取り入れた玩具やアーケードゲーム業界へと進出。ゲーム&ウオッチやファミコンで波に乗れたのも「おもちゃ業界というのは、所詮は1つのキャラクターが売れているうちは、それに全力をあげ、そればかりで商売しようとする業界だ。だからどこもエレクトロニクスをやろうなんて思わない。うちはよそのメーカーと同じことをやるくらいなら、やらないほうがましだという考え方だ。だからエレクトロニクスに乗り出した。しかし、それもよく考えてみると、おもちゃ業界でよそと違うことをしようと思うと、そこしか残っていなかったということなんです」(※6)と語る。

運を重んじる経営とソフト体質

「よそと違うことをするから価値がある」は山内の口癖で、任天堂が最も大切にする娯楽の本質として岩田を始めとする経営陣へと受け継がれている。同社は誰もがあっと驚くゲームを開発して売り上げを伸ばす一方で、自らの組織拡大には慎重な姿勢を示す。「今の10倍に社員を増やしたら、"任天堂らしさ"は保てません。強みを発揮できる部分に絞るべきで、そうでない部分を上手に捨てられるからこそ、少ない人数でも大企業と戦えるわけです」(※7)岩田は語る。
こうした姿勢は、お金の使い方にも表れる。任天堂の財務体質は強固で、2000年代には1兆円近いキャッシュを保有し、ファミコンの発売以降、無借金経営を貫いている。多額のキャッシュは、将来へのリスクに備えると同時に、信用保証の面でも大きな意味を持っている。キャッシュリッチだからこそ、パートナー企業に無茶を言っても取りっぱぐれないと思ってもらえるのだという。安易な規模拡大やM&A(合併・買収)はせず、商品が売れたからといっても社内が華やぐでもなく、建物も矩形が無駄なく効率がいいと考える。いいものを作ってしっかり品質管理すれば、結果的にコストがかからないのだという。「異業種に絶対手を出すな」と山内が言い残したのも、自身の壮絶な経験からだった。
「失意泰然、得意冷然」(物事がうまくいかない時は焦らず行動し、好調な時は驕らず真摯な態度で)は、山内の亡き父・鹿之丞が残した言葉で、溥の座右の銘にもなっている。山内はこの言葉の持つ意味をかみ締め、当たりはずれの大きな娯楽産業の本質を捉えならが、割り切った経営をすることでバランスを図った。岩田も山内の言葉をなぞるように繰り返し、「娯楽品というのは、生活必需品ではないため、なくても困らない。なくてもいいものに人は我慢しないし、説明書も読まない。わからなければ全部作り手のせい。その厳しさに鍛えられてきた。何よりも驚きが大事で、人を驚かせることができなければ商品は売れない」(※8)と訴える。
娯楽産業は、生活必需品をより安く作ることが求められる体質が優先されるハードの産業とは異なり、独創的なソフトを生み出す「ソフト体質」が優先される世界だという。山内が半世紀かけて築いた価値観は「運」と「ソフト体質」という言葉に集約され、任天堂に浸透した。「娯楽に徹せよ」「独創的であれ」「必需品と区別せよ」「身の丈を知れ」任天堂の企業風土を作った山内が、岩田たちへとそのDNAを受け継ぐ。だから任天堂は環境の変化に対して柔軟でありながらも、芯はぶれないのだ。

    出典

  • ※1 64DD専用ソフト『タレントスタジオ』社長挨拶
  • ※2 任天堂公式のMii・岩田聡
  • ※3 任天堂経営方針説明会(2000年9月8日)
  • ※4 ※7 ※8 日経ビジネス「任天堂はなぜ強い「たかが娯楽」の産業創出力」(2017年12月17日号)
  • ※5 ※6 高橋 健二著『任天堂商法の秘密』(祥伝社)