第4章 任天堂の完全復活 ニンテンドーDS

2画面&タッチペンの新しいゲーム機

ニンテンドーDS(2004年)

ニンテンドーDS(2004年)

ニンテンドーDS(以下「DS」)が生まれたのは、任天堂本社近くのゴルフ場内にあるイタリアンレストランだったという。ニンテンドーゲームキューブが苦戦し、ユーザーのゲーム離れが起きる中、岩田と宮本は「なぜみんながゲームに触らないのか」という問題意識を共有し、何度も議論を重ねた。ゲーム機を触ることを阻害している要因の1つに、コントローラーの複雑さがあり、ゲームで遊ぶことへの敷居を大きくあげていた。さらに山内が「2画面の携帯型ゲーム機」と言い残し、これも難度を押し上げていた。悩みぬいた末、岩田はレストランでの食事中に宮本から出た"タッチスクリーン"というアディアを即採用。2画面、タッチスクリーンに続き、マイク入力、ワイヤレス機能といったアイディアが次々と浮かび、インターフェースを刷新。ゲーム熟練者はもちろん、初心者やゲーム未体験者の誰もが同じスタートラインで楽しめることを目指した。一方、家庭用ゲームで扱うテーマを広げることにも注力。新しい仕組みだからこそできる新ジャンルのソフト作りで、ユーザー層の拡大を図った。

Touch Generations!で幅広い世代にアプローチ

脳を鍛える大人のDSトレーニング(2005年)

脳を鍛える大人のDSトレーニング(2005年)

2004年12月の発売から順調な滑り出しを見せたDSだが、当初の購入者は従来からのゲームファンにとどまっていた。事態が一変したのは、発売5カ月目で、岩田が商品化した『脳を鍛える大人のDSトレーニング』(以下、脳トレ)が面白いとの口コミが広がってからだ。脳トレ購入者10人のうち、6人が本体と同時購入したという。さらに2005年9月の敬老の日には、脳トレとDS本体が高齢者に贈られて売り上げを伸ばすという、ゲームの歴史上見たことのない現象が起きた。脳トレは、タッチペンで字を書いたり、声を入力したりといった直感的な操作と、ゲーム感覚で楽しめる脳年齢などが話題となり、大ヒット。老若男女問わず幅広い層に受け入れられ、DS普及に大きな役割を果たした。この他にもタッチペンで犬をかわいがる『nintendogs』が世界中で大ヒット。「すれ違い通信」と名付けられた無線通信で新しいコミュニケーションが生まれている。これら世代を超えて誰でも楽しめるソフト群は「Touch Generations!」と名づけられ、料理や英語学習などこれまでにない新ジャンルのソフトが次々と導入され、ゲームの枠を広げていった。DSのイノベーションにより、任天堂は「ゲーム人口の拡大」を基本戦略に据え、新しい遊びと世代や性別を超えて誰もが楽しめるソフトの開発を強化していく。

世界で1億5402万台を販売

その後DSは順調に販売数を伸ばし、発売9カ月目には300万台、12カ月目には500万台を突破。2005年末には遠く離れた人との通信プレイができる「ニンテンドーWi-Fiコネクション」サービスを開始し、対応ソフト第1弾の『おいでよ どうぶつの森』が500万本を超える大ヒットとなる。続く『マリオカードDS』も400万本近い販売数を達成。2006年3月2日にはDSの軽量化版『ニンテンドーDS Lite』が発売され、販売店にはユーザーが殺到。全国的に品切れが続出し、「日経トレンディが選ぶ2006年ヒット商品第1位」に選ばれるなど各メディアでDS人気が報道され、社会現象化していった。発売20カ月目には1000万台を突破し、国内ゲーム機市場最速で普及。

全国各地に設置されたDSステーション。ネットサービスが受けられた

全国各地に設置されたDSステーション。ネットサービスが受けられた

2008年11月1日、国内では2300万台を超えていたDSを1人1台に普及させようと、任天堂は上位モデル『ニンテンドーDSi』を発売。カメラや音楽再生機能などを搭載し、「DSiウェア」などのダウンロードサービスを開始した。その後、画面サイズを大きくした『ニンテンドーDSi LL』も発売。DSシリーズは、最終的に国内で3299万台、全世界で1億5402万台を販売する世界で最も売れたゲーム機となった。

ワンマン体制から集団指導体制へ

DSの勢いがつき始めた2005年6月、山内は取締役を退任し、相談役にとどまった。退任時には任天堂側から慰労金12億7000万円が提示されたが、「それよりも社業に使ってほしい」と申し出を辞退。山内は現役時代、縦割り組織の経営手法により、各事業部のトップを競わせることで能力を引き出していた。そのため、任天堂の事業部間連携は薄く、風通しが悪くなっていたという。それでも、外様だったハル研究所の岩田だけが唯一、横との連携を深めていた。山内の長年の経験による直感的な判断は、現場に大きな負担を強いることもあったが、岩田がわかりやすく丁寧に説明。「私の役割は、山内さんの判断を科学的に説明することです」(※)というほど、岩田の存在は大きかった。行き詰った『MOTHER2』の立て直しや、ポケモンの海外進出など、岩田の果たした役割は大きい。高齢で気力・体力ともに衰えていた山内は岩田を見出し、引退を決意。岩田はハードにもソフトにも精通した現場型で、何事も独断では判断せず、末端の社員であってもコミュニケーションを欠かさなかった。山内は成長の踊り場にいた任天堂の経営スタイルを刷新することで、次世代に賭けた。岩田ら新経営陣は見事、山内の期待に応え、任天堂を大きく発展させていった。